縁山「家庭教師なずなさん」①②

 

   闇のフィクサーだった祖父の遺産を受け継いだ孤独なお坊ちゃま、暦甲子太郎(こよみ・かしたろう)と、押しかけ巨女金髪縦ロールスパルタ家庭教師メイド、蠅江(さばえ)なずなが主人公のドタバタコメディ。

 みどりやまじゃないよへりやまだよ。どりんちょといい縁山縦ロール好きだなあ位の気持ちでジャケ買いしたら結構面白かった。縁山だけどそんなにエロくないよ。どのキャラもフェチの塊ではあるけど下品ではない。

 それより実は高性能だけどコンプレックスまみれの甲子太郎様を愛でる漫画。縄抜けできるしナズナさんを柔術で投げ飛ばせるし肉体的にはハイスペックだよね甲子太郎様。

なずなさんを始め追加の押しかけ部下の面々も方向性は違えど坊ちゃまLOVEな面々なので面々なので嫌みがない。

 2巻までのキャラでは兎宮が一番好きなんだけど、なんか思い出すと思ったら坊っちゃんの清だわ。盲目的な信奉者だけど無私で心根は清いっていいキャラだよね。

heisoku「ご飯は私を裏切らない」

 

ご飯は私を裏切らない (角川コミックス・エース)
 

多くの命にとって普遍的な死とは 食われて死ぬか病で死ぬか飢えて死ぬか

私もいずれ困窮の末にその中に加わるだろう 勇気を持て!!

百獣の王だって 最後は孤立して餓死!!

 29歳中卒友達無し恋人無し職歴無しの主人公ちゃんがバイトとバイトの間にご飯食べる話。食べることから始まる、内省的な精神世界の話が良い。

 食欲って一番基本的な「生きるため」の欲じゃないですか。そこを内省的な話につなげるために、①理性を飛ばすための酒は出さない②画力はあるのにメシを上手そうに描写しすぎない③繰り返し動物トリビアを出してくる、とか計算されて描かれてて作者頭良いなあと思うんですよ。

 いや、俺は結構ご飯に裏切られてるけどね。うろ覚えのレシピで失敗したり、カキでノロに中ったり。けど自炊が精神衛生上良いというのは分かる。自分の面倒を自分で見る基本的な要素だからね。

白川雷電「黒鉄の太陽」

 

朝目覚めると「地下」に落ちていた超能力少女リンと、《太陽》を宿す謎の男クロガネがの冒険活劇。やや詰め込みすぎな感はあるが、それぞれの理由で「天井」を目指すストーリーは一本筋が通っててしっかり読ませてくれる。

石川賢ばりの荒々しいタッチとベタ塗りで描かれる、動きのあるアクションシーンが特徴的。機械と肉が融合したような異形がたくさん登場するのだが、ソリッドさと同時に筋肉の動きが伝わってきてたまらない。特にクロガネの跳躍する様は、上を目指すというテーマとも合致してて見てて気持ちが良い。

あとヒロインのリンの造形が素晴らしいね。三白眼(四白眼?)がいい。瞳の大きさや向いている方向でその場面ごとの意思がはっきりと伝わってくる。普段は地下世界の黒に溶け込む黒のセーラー服に目が映えるって言う構成で、力が解放されると全身が白に染まるという解放感。

春野友矢「ディーふらぐ! 15」

 

…… あっ…これはやっぱり駄目…

そもそも私の部屋だからとか関係なかった

今はどこだろうと 何しても駄目だわ

風間の顔をまともに見れないぃ

 

まあその風間はアレなカッコなんですけどね!

シスター大好きなので扉絵のシスター高雄でまず爆沈した。

相変わらず何やってるか分からない気が触れたようなギャグ漫画の合間合間にラブコメが挟まる展開だが、この作者高尾といい船堀といい照れ顔が本当に可愛いので、その振れ幅で落ちる。123話冒頭の高尾部長の照れ顔三段階とか最高ですね。

相手の親に会う展開に狭いところに閉じ込められる展開に主人公の女装に女の子の部屋に初めてお呼ばれとかものすごい密度だが、重くなりすぎずに毎話ギャグとしてオチ作ってるのは流石。前巻から登場してる風間父は適度な強キャラ感を維持しつつ真面目なボケキャラを維持してて良いね。最初は真面目なキャラとして登場してても、ギャグ漫画ではボケはボケとしてどんどんキャラ崩壊してしまうのが常だが、父親として一定の歯止めが効いてる気がする。

あと芦花の美少女顔が今まで1割だったのがラブコメの空気に当てられて2割ぐらいになってるので当社比2倍になって戸惑う。前巻は特に少なかったので、今巻で最初に美少女顔を見たとき本気で誰か分からなかった。

id:deztecさんへのお返事

 

冬野梅子『普通の人でいいのに!』私はこう読んだ - id:deztec

最後の“田中さんは一貫して、そこそこ幸福である”というのはちょっとよく分からない。主人公が幸福を感じていないのはちゃんと作品中に描写されていると思うし。「恵まれている」「善良である」とかなら分かるが。

2020/08/01 17:33

b.hatena.ne.jp

冬野梅子『普通の人でいいのに!』私はこう読んだ - id:deztec

<a href="/type-100/">id:type-100</a> 記事冒頭の、漫画へのブコメの通りです。この記事において私は、「気の持ちよう次第で幸福になれる客観状況なら、実際に選択された主観において不幸であっても幸福の内」という言葉の定義を採用しています。

2020/08/01 17:46

b.hatena.ne.jp

言葉の使い方が違うのだと言ってしまえば、まあそれで終わる話かもしれませんが。

題はお返事としましたが、deztecさんにボールを投げ返すような話ではありません。特に興味を引かなければ無視していただいてもかまいませんし、不満や当方の不手際がありましたら批判・罵倒していただいてもかまいません。

 

私は元の漫画も読んだし、tyoshikiさんの記事も読みましたが、はてブは残していません。特に言いたいこともなかったし、後で読み返すこともないと思ったからです。

『普通の人でいいのに!』の主人公についてはdeztecさんと同じく、まあ悪人ではないと思います。なんなら善良と言ってもいい。同僚や友人としてなら普通につきあえると思います。けど大嫌いです。絶対に自分はああいう人になりたくないという意味で嫌。そりゃまあ私も人並みに他人を羨んだり蔑んだり自分を偽ったりするしそういう部分を持ってるのは当然だしなんならリディ・マーセナスとかそういう劣等感で悩むキャラクターが好きなんだけど、嫌い。

だってどうみても幸福そうではないから。deztecさんは「絶対的に不幸ではない以上、考え方ひとつで幸せになれる」と書いているけど、実際には考え方を変えられてないわけだから。承認欲求に悩むのが世の常なら、それにどうにかこうにか折り合いを付けて多少のアタラクシアを得て生きていくのも世の常でしょ?

amamakoさんへのリプライに「一人で趣味を追っかけてる分には微笑ましいですが、思春期みたいな周囲との葛藤抱えてるのはかなり引きます」と書いたんですが、阿部共実の描く思春期のキャラ*1とかなら、私はこういう「嫌さ」はほとんど感じなかったと思います。こういう感覚は年齢差別でありましょうし、deztecさんなら他人に対する期待が高すぎるのだと言うのかもしれませんが。

deztecさんの文脈に則るなら、主人公は客観的には「幸福」です。けど主観的には全然幸せではない。そのギャップが読者にネガティブな感情を引き起こしてると思うんですよ。その根源は「俺たちは我慢してるんだからお前も我慢しろ」的な感情かもしれませんが。

 

あと言っても詮無いこととは分かりつつやっぱり言っておきたいんですが、本人の主観を無視して客観的にその人が幸福かどうかを決めるというのは無理がありませんか。「恵まれている」とかの表現ではいけませんか。辞書なども一応引いてみましたが、ちょっと非標準的な使い方ではありませんか。

もちろん言葉をどう使おうが自由ですが、「絶対的に不幸ではない以上、考え方ひとつで幸せになれる」から「気の持ちよう次第で幸福になれる客観状況なら、実際に選択された主観において不幸であっても幸福の内」というのは読み取れないと思いますよ。現実の似たような人の話ではなく、この漫画の主人公の話をしているのなら、考え方を変えた主人公というのはいないわけです。

deztecさんの記事の4章についてもそうなのですが、「漫画らしい空想であり、飛躍であり、つまるところ、実際の田中さんは部屋の中で座っていると考えている」と言われても、実際の田中さんは漫画の表現の中にしかいないわけです。漫画の中の田中さんはやっちゃったわけです。田中さんみたいな人が現実にいたら私はなるべく嫌な顔をせずに接するし何か事情があったんだろうとおもんばかると思いますが、漫画の中の田中さんには嫌なヤツだなーと思いますし、それをネットに書くことが悪いとは思いませんよ。作者のツイッターやノートを多少見ましたがこれは実録漫画でもエッセイ漫画でもないと判断しています。

*1:ちーちゃんはちょっと足りない」のナツとか、読後感最悪の作品ですし田中さんより悪人よりですが、嫌いではありません

牡丹もちと「コーヒームーン」

 

コーヒームーン 1 (単行本コミックス)
 

  元気な金髪少女が好きだからジャケ買いしてしばらく積んでたけどアタリだった。

 終わらない一日を少女ピエタが繰り返すというあらすじだけなら普通のオタクなら100回は目にしたような話だが、とにかく演出が気が利いてて良い。黒と白だけの世界に終わらない雨。陰鬱な世界にピエタの笑顔と髪だけが映える。

 ループに引き込まれる親友駄苗(ダナエ)と新たに友達になるお嬢様キアロという配役から、人間関係を軸に物語が駆動していくのだと思われるが、どう転ぶのか全く予想がつかない。作者もこう言ってるし、単純なバッドエンドではないと思うが。とにかく続きが気になる。

 あと、ぐるぐる目良いよね。この物語は登場人物みんな狂気と正気の狭間にいるような不穏な精神状態だけど、1巻ラストの白黒反転とか、作者はぐるぐる目を意識的に使ってそうなのも個人的にかなりポイントと高い。

地に足の付いた「異端」 筒井賢治『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』

 

体制批判のごとく血なまぐさい熱狂もなく、殉教指令のごとく凍りつくような冷徹さもなく、単にギリシア哲学や二元論的な世界観を積極的に取り入れてキリスト教の福音を知的に極めようとした無害で生ぬるい運動。表現がネガティブにすぎるかもしれないが、つまるところ、紀元二世紀のキリスト教グノーシスとはこのようなものであったと言っても間違いではない。

 いやはや面白かった。最近キリスト教の歴史について興味を持ち色々本を読んでいるが、その中でもピカイチだった。

 肉体は仮初めのもので精神こそが人間の本質と見なしそれを貴ぶという考え方は、初期キリスト教以前のギリシア哲学の時代からあった。生に四苦八苦を見いだし輪廻からの離脱を目指す仏教も似通った傾向はあるだろうし、現代日本に生きる我々にも、決して理解できないものではないと思う。

 しかしなぜそれが、現世は悪の神が作った悪の世界であるとするキリスト教グノーシス主義に至ったのか。簡単に言えば、ユダヤ教の神とキリスト教の神は本当に同一なのか、という疑問に答えるためである。ヨブ記に表れるような傲慢で人間を所有物として扱う神と、イエスが語る慈悲深き神が同じなのか。アブラハムの子孫を救うユダヤ教の神が、全人類を救うキリスト教の神と同じなのか。そして全能なる神がこの世を作ったのならばなぜこの世に悪が溢れているのか。

 もちろんイエスも直弟子たちも我らの神はユダヤの神と同じであると繰り返し述べているし、キリスト教の指導者たちは様々な方法でそれを「論証」してきた。 

 しかしユダヤ教の神とキリスト教の神は同一ではない、と言ってしまう道もある。それがグノーシスである。ユダヤ教の神(創造神)はキリスト教(至高神)の神のごく一部でしかない。しかもその創造神は自らの不完全性に気づかぬ愚か者であったためにこの世には悪が溢れたが、至高神と我々は愛によって結びついている。よって至高神の存在を認識(グノーシス)し、現世からそこに至るのが救いの道だ、というのがキリスト教グノーシス主義である。

 無神論者の浅薄な理解ではあるが、本書を読んでこのように脳内に道筋が出来た。筆者曰く、グノーシスが現世否定の思想だとは言っても、実際の信徒が際立って退廃的・厭世的な行動をとったわけではないそうな。グノーシスの一見とっぴな思想が、狂信ではなく歴史的必然をもった論理的帰結として生まれた、というのが面白い。