地に足の付いた「異端」 筒井賢治『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』

 

体制批判のごとく血なまぐさい熱狂もなく、殉教指令のごとく凍りつくような冷徹さもなく、単にギリシア哲学や二元論的な世界観を積極的に取り入れてキリスト教の福音を知的に極めようとした無害で生ぬるい運動。表現がネガティブにすぎるかもしれないが、つまるところ、紀元二世紀のキリスト教グノーシスとはこのようなものであったと言っても間違いではない。

 いやはや面白かった。最近キリスト教の歴史について興味を持ち色々本を読んでいるが、その中でもピカイチだった。

 肉体は仮初めのもので精神こそが人間の本質と見なしそれを貴ぶという考え方は、初期キリスト教以前のギリシア哲学の時代からあった。生に四苦八苦を見いだし輪廻からの離脱を目指す仏教も似通った傾向はあるだろうし、現代日本に生きる我々にも、決して理解できないものではないと思う。

 しかしなぜそれが、現世は悪の神が作った悪の世界であるとするキリスト教グノーシス主義に至ったのか。簡単に言えば、ユダヤ教の神とキリスト教の神は本当に同一なのか、という疑問に答えるためである。ヨブ記に表れるような傲慢で人間を所有物として扱う神と、イエスが語る慈悲深き神が同じなのか。アブラハムの子孫を救うユダヤ教の神が、全人類を救うキリスト教の神と同じなのか。そして全能なる神がこの世を作ったのならばなぜこの世に悪が溢れているのか。

 もちろんイエスも直弟子たちも我らの神はユダヤの神と同じであると繰り返し述べているし、キリスト教の指導者たちは様々な方法でそれを「論証」してきた。 

 しかしユダヤ教の神とキリスト教の神は同一ではない、と言ってしまう道もある。それがグノーシスである。ユダヤ教の神(創造神)はキリスト教(至高神)の神のごく一部でしかない。しかもその創造神は自らの不完全性に気づかぬ愚か者であったためにこの世には悪が溢れたが、至高神と我々は愛によって結びついている。よって至高神の存在を認識(グノーシス)し、現世からそこに至るのが救いの道だ、というのがキリスト教グノーシス主義である。

 無神論者の浅薄な理解ではあるが、本書を読んでこのように脳内に道筋が出来た。筆者曰く、グノーシスが現世否定の思想だとは言っても、実際の信徒が際立って退廃的・厭世的な行動をとったわけではないそうな。グノーシスの一見とっぴな思想が、狂信ではなく歴史的必然をもった論理的帰結として生まれた、というのが面白い。