片岡大右「小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える」

初めに書いておくと、私は音楽に余り関心がなく世代もやや外れているため、記憶の限りでは小山田圭吾氏の楽曲をフリッパーズギター時代もコーネリアス時代も全く聴いたことがない。そのため小山田氏の音楽活動に対しては良い印象も悪い印象もないし、今後氏が音楽活動をもっと積極的に行ってほしいとも、行うべきではないとも思わない。

次に自分語りをすると、解任騒動当時、私は世間やSNSの熱狂よりはやや冷めた目で見ていたと記憶している。当時の自分のはてブを振り返ってみたが、揶揄するようなコメントはあっても小山田氏や五輪組織委を強く批判するようなコメントは無かった。もともと東京五輪自体に対して否定的だったので、このような騒動が起こったこと自体に対してはいい気味だとは思っていたかもしれないが。数年前からゴシップ的な出来事にはあまりブコメをしないようにしていたこともあっただろう。

いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか

2はまだ言いたいことは分かるが、3は最悪だなあ。

2021/07/25 18:56

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関連して北尾修一氏を批判するブコメはあったが、記事が消えていたのでウェイバックマシーンで読み直したところ、推測に推測を重ねる北尾氏の文章に対する批判であって、解任騒動そのものへの感想ではなかったかと思う。

私は背が低くひ弱な子供だったので、基本的にはいじめられっ子だった。しかしある事情から一度自分がいじめに加担した記憶も鮮烈に残っている。その事情がなければ私は自分がいじめに加担したことを次の日には忘れていただろうと思う。

だから私は、目の前でいじめが行われていればそれは止めるだろうが、ネットの向こうで行われている誰かと誰かのいじめに対し、ネットであれこれ言う気にはなれない。

 

さて、ようやく本書の内容だが、小山田氏に思い入れない身からすると、著者の情熱的で雄弁な語り口ははっきり言って閉口させられた。

QJの「いじめ紀行」に参加したことで小山田氏の行為が「いじめ」として問題化されてしまったという主張も、ROJ時点で氏本人が学校でのいじめとして語っている以上あまり説得力を感じない。

障害を持つ生徒との交流に紙幅が割かれているにもかかわらず批判者がそこに注目しないことへの不満も分かるが、加害者側の思い入れがいくら語られても被害者側がどう思っていたか分からないという側面もあるだろう。

ROJでの露悪的な物言いがQJでは軌道修正されているのは確かだが、後から言った修正が正しい保証は何も無い。

 

しかしそれでも、一度「いじめ」という概念で問題化されてしまったが最後、実態にまるで関心を払わずに抽象的なバッシングが加速するインフォデミックの問題はやはりあるだろう。

小山田氏の主張を信じるならであるが、氏がおこなった「あの程度」のいじめは、犯罪とか人非人とか言われるほどのものだったとは、はっきり言って私には思えない。もちろん氏の主張を信じる必要は無いが、その場合批判者はどのような根拠に基づいて批判しているのか。

またロマン優光氏や吉田豪氏が鬼畜系文化を引き合いに出して解任騒動を解説し、結果的に鬼畜系の問題を相対化しているという批判ももっともであると思う。

ROJのカラーに合わせていかにもヤンキー的な武勇伝を小山田氏が話し、編集が誇張して演出したという見立てはある程度説得力があるとおもう。そこで演出された「悪さ」とゴミ漁りや食人などのタブーを相対化して見せる鬼畜系の「悪さ」は質的に異なるものだろう。

引っかかるところは多く、爽快な読書体験ではなかったが、それでも本書が出版された意義はあると思う。