もう少しだけ生きてみる 『すずめの戸締まり』感想
タイトルは宮崎駿の「生きろ」、富野由悠季の「頼まれなくたって、生きてやる」からの類推です。
災害であれ過疎であれ人の営みが失われていくのは悲しいけれども、その後にはある種美しい自然に戻っていく。いずれは全てが失われていくかもしれないけれど、人間はそれでも他人との縁を頼りにどうにかこうにか生きてく、という感じでしょうか。
とても好きな話なんだけど、基本的に静的な話なのでちょっと語りづらい。災害を未然に防ぐ話だしね。椅子と猫のおっかけっことか絵的にはとても楽しいんだけど、あくまで観客に対するサービスという印象。もっと「美しい廃墟」描写があっても良かった気がするが、そこは自制したのかな。「これが、綺麗?」のセリフからしても、滅びの美学とか廃墟価値とかではなく、あくまで生活の美しさを描きたかったんだろう。
「君の名は。」が大勢の人を救う話、「天気の子」が一人の人間を救う話だったのに対して、「すずめの戸締まり」は自分で自分を救う話。
オチに現れるあの人、すぐに正体に気づいた人もいると思うんですけど、僕は直前まで分かりませんでした。わざわざ常世なんて設定を作るからには死者との対話をするのかと思ってたんですが、それはしない。あくまで生きている人間が、生きている人間と関わるなかで、過去にケリを付ける話。
ファンタジックな話でありながらも、決着の付け方にある種の誠実さというか真面目さがある。この辺女の子助けたら世界は助けられなかったけどそれでも生きていく天気の子と同じ感触で、そういう新海監督の語り口が好きです。天気の子はメタセカイ系で、すずめの戸締まりは非セカイ系。
・八幡浜港のフェリー乗り場でチャンポン麺食べたなあ、と思ったら改築されてあの建物無くなったらしい。
・天気の子の凪パイセンに続いて力を貸してくれる陽キャが魅力的すぎる。ヒロインよりも「陰キャオタクにとっての理想化された存在」感がある。神木隆之介も上手すぎる。
・ダイジンはまあ、可哀想だよね……。常世の中にあるはずの要石が現世にあったってことはああいう風な要石の移動が定期的に起こるのだろうと解釈しているが、嫌で他人に押しつけた役目も再び引き受けたわけで。
マルレーヌ・ラリュエル「ファシズムとロシア」
ロシアによるウクライナ侵攻以降、ファシズムという言葉は何でも入れられるゴミ箱のような扱いを受け、定義不明のまま罵倒語として飛び交ってきた。
本書ではファシズムを「暴力的手段によって再構成された、古来の価値に基づく新たな世界を想像することで近代を徹底的に破壊することを呼びかける、メタ政治的イデオロギー」と定義している。
この定義を採用するならばロシアの現体制がファシズムとは言えないし、もちろんウクライナの体制もファシズムでない。*1
ロシアには確かに排外主義的・民族主義的な主張を行うグループが存在するが、そのようなグループは東欧に西欧にもアメリカにもアフリカにも日本にもアジアにもいる。そのようなグループの存在と、体制そのものがファシズム的存在があるかは別の話である。プーチンはそのようなグループを良くも悪くもコントロールしてきたが、そのようなグループが政権中枢に参入できたわけではない。
ロシアは反リベラリズムで権威主義的だが、だからといってそれが直ちにファシズムとつながるわけではない。
本書で取り上げられるロシアに見られる唯一のファシズム的兆候はマチズム的サークルの増加である。プーチン政権下では武道・スポーツ団体、青少年団体、バイカーサークル、自警団組織などの保守的傾向の強い団体が国家の庇護の元で拡大してきた。
私としては、ロシアはファシズム体制ではないという筆者の理論に概ね同意する。ただしこの本が書かれたのは2021年でありウクライナ侵攻前である。プロパガンダとして語られるロシアのウルトラナショナリズム的な言葉を、真の戦争目的として真面目に捉えるべきではない。
しかし戦場のナラティブは銃後に伝染する。ソ連崩壊後の混乱を収めた強い指導者としてプーチンは君臨している。今次の戦争で溢れたウルトラナショナリズムを利用した、「より強い」指導者が現れる可能性もあるのではないか。それが数年後のプーチンなのか、別の誰かなのかは分からないが。
久保田成子展 東京都現代美術館
ぶらっと都現代美術館に行って、三つある展覧会の内一番空いていた久保田成子展に入ったんですが、面白かったですね。
映っている映像の内容ではなく、何かが映っている画面がそこにあるというのが印象的。画面は現実に生まれた裂け目であり、そこから何かが染み出してくるものなんですよね。
全く同じ映像を見せられても、その画面が異なった場所にあれば当然異なって見えるんですよ。複製芸術が複製であるのは見る側が同じようにしか見ないからではないか、というようなことも考えさせられました。
誰が妊婦を言祝ぐのか 橋迫瑞穂「妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ」
妊娠・出産は女性の身体性が超越性とのつながりを、自分自身だけでなく周囲にも提示する役割を担うものと言えよう。
橋迫瑞穂. 妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ (集英社新書) (Kindle の位置No.2055-2056). 株式会社 集英社. Kindle 版.
理論化された世界宗教は、しばしば妊婦に冷淡である。ケガレや欲の象徴として、妊婦は祈りの場から遠ざけられる。では何が妊婦を社会の中で価値あるものとして称揚してきたかと言えば、もっと土着的な宗教や、共同体主義的な価値観だろう。
土着的宗教・共同体主義的価値観が力を失った後代替として現れたのが、本書で紹介されるようなスピリチュアリティなのだと思う。
そして女性の権利を拡大してきたウーマンリブ的なフェミニズムも、妊婦をうまく位置づけることができなかった。差別を撤廃すれば男女が本質的に対等であると考えるフェミニズムにとって、女性にしかできない仕事である妊娠・出産はイレギュラーな出来事である。
女性の自己決定権のため、育休制度などを勝ち取ってきたフェミニズムの活動は素晴らしいものだと私は思っている。しかしそのなかではどうしても、妊娠出産は本来のキャリアの合間の「腰掛け仕事」になってしまう。そういう意味で森岡正博氏が帯に書いているように、妊娠出産はフェミニズムの落とし物なのだ。
対照的にスピリチュアリティは身体性に基づく、本質的な男女の違いを強調する。フェミニズムがジェンダーを前提にした女権拡張運動なのだとしたら、スピリチュアリティはセックスを前提にした女権拡張運動なのだ。
TERFとTRAの対立など他の場面でもジェンダーとセックスの対立を感じることは多く、そういう意味でも興味深く読んだ。
ワクチン副反応
先日モデルナの職域接種を受けた。
1回目は多少腕が腫れたぐらいで問題なし。
2回目は接種翌日に39度の熱。猛烈な倦怠感と関節の痛みがあり、寒気と暑さが交互に来る。食欲はあまりなかったが無理してうどんを食ったら、出汁の味が全くしない。あんな不味いうどん初めて食った。接種時にもらったカロナールが無くなったので常備薬の消炎鎮痛剤も飲む。
その翌日も関節炎は残ったが概ね回復。
しかし具体的にどこが悪いわけでもないがなんか疲れやすいな、ぐらいの調子の悪さが10日ほど続き、その後肌がめちゃくちゃ荒れて倦怠感が酷くなった。
元々アレルギー体質だが、ここまで悪くなるのは10年ぶりぐらいなのでかかりつけの病院行く。
すると10日ぐらいでまた副反応が出る人が結構いると聞かされる。←イマココ
正直なところ、また同じような症状が出るなら予防効果があったとしても3回目の接種はしたくないという気持ちがある。
そうは言っても実際に3回目の機会があったら打つのかもしれないが。
丸井諒子「ダンジョン飯 10巻」
65話扉絵のうさぎバレリーナマルシルがかわいい。ずいぶん長く続いている気もするけどまだ60話代なんだね。あとカレー食べてる時のファリン(上半身)も。
覚悟を固めたライオスが今までになく格好良く見えるが、それは翼獅子の誘いに一直線に嵌まっていくことでもある。
マルシルの願いを聞いた後の、翼獅子の黒目がゆがむコマ。悪魔の象徴たる山羊の目に変わる瞳に変わるイメージなのかな?
定番だが、全ての人種の命を縮めるような形で願いを叶えそう。とはいえ、翼獅子の邪悪さは、エルフたちによって一方的に語られている面もあるので、今後もう一度ひっくり返されるかもしれない。次巻が楽しみ。