「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を見てきた

この映画の登場人物たちは、みんな激しい怒りで頭がプッツンしている。ふがいない自分、憎き敵、理不尽な世界への怒りで身を燃やし、荒野を疾走する。そして燃え尽きるように次々死んでいく。

印象的だったのは最後にフュリアスとマックスが見つめ合うシーンだった。フュリアスは復讐を果たし、妻たちを含め虐げられた人々を解放したが、その顔は決して笑っておらず、晴れ晴れともしていない。思えば、彼女が本当に求めていた「緑の地」はもはや戻ってくることはない。砦を去り、一人荒野に戻ろうとするマックスは「救えなかった人々」の幻影に苦しめられ、自分を責めている。決して癒やされることのない怒りに身を焼かれているもの同士の繋がりが、二人にはあったのだろう。

 

あと初めて4DXのスクリーンで見たんですが、かなり没入感があって面白かったです。匂いはよく分からなかったし、煙はちょっとスクリーンが隠れて邪魔かなとも思ったんですが、耳の横を銃弾が通る感覚とかは、かなりヒヤヒヤしました。席の揺れ、振動は、ほぼ全編カーチェイスの映画でしたが、ほとんど違和感なく一体感があって関心しました。そういう激しいアクションシーン以外にも、上で挙げたフュリアスとマックスが見つめ合うシーンで席が斜めになり、両者の高低差・距離感を感じさせる演出とかも面白かったです。

やっぱり日本の中心にある国家神道と、それ以外の諸々の宗教と 「宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学」塚田穂高

 

宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学

宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学

 

 日本において政治進出に成功した宗教団体というのは、今のところ創価学会公明党ぐらいしか無い。オウム真理教真理党など政治進出を目指した宗教団体は多いが、泡沫政党として消えていった。幸福の科学幸福実現党は地方議会で当選者を出しているようだが、国会での当選には比例区でも程遠い状況だ。

宗教団体の政治への関与には、別の極もある。日本会議には国家神道神道政治連盟以外にも様々な宗教団体が参加しており、独自候補を立てずに主に自民党保守系議員を支援している。その中には神社本庁天台宗といった大組織以外にも、戦前なら異端として弾圧されていたであろう教義を持つような小規模組織も含まれている。noiehoie氏のこのへん(日本会議に集まる宗教団体の面々――シリーズ【草の根保守の蠢動 第3回】 | ハーバービジネスオンライン)とか参照。

宗教団体が政治に関わるとき、この二つの方法があるわけだが、各団体がどちらの道を選ぶかについて、どのような要素がそれを決定しているのだろうか。本書では、「正統ー異端性」と「ナショナリズム」という属性から、様々な宗教団体を分析している。

宗教ナショナリズム

世の中には様々な宗教団体があるが、単に規模が大きければ積極的に政治参加するというわけではない。本書が取り上げている団体の中では、生長の家のように政治関与を打ち切った団体もあれば、浄霊医療普及会=世界浄霊会のように当選の可能性がほぼないことを承知のうえで複数回国政選挙に出馬した団体もある。

では、何が政治参加を分けるかというと「ナショナリズム」である。本書の「ナショナリズム」は民族主義国家主義ではなく、国家観に近い概念だ。現在の日本国や日本社会がどのようなもので、あるべき社会(ユートピア)はどのようなものか、という明確なビジョンがなければ、政治力を持っても達成すべき目標がない。単に政治と結びついて便宜を得るというだけでなく、積極的に政治的主張を発信し、選挙などの活動に関わるかどうかには、ナショナリズムが重要だというわけだ。現代社会に対する危機感や、達成すべき明確な目標を持っていれば、見込みが少なくとも色々と理由をつけて政治に関与していく。

「宗教は個人の心の問題」とする「こころ教」(「こころ教」と「原理主義」の時代が来る?:日経ビジネスオンライン)という現象があるそうだが、逆に言えばそのようなスピリチュアルな団体なら、どれだけ規模を持っても積極的な政治参加は行わないだろう。

本書は①文化・伝統観、②天皇観、③対人類観、④経済的優位観、⑤戦前・大戦観、⑥欧米・西洋観、⑦ユートピア観の7つの指標から、各団体のナショナリズムを分析している。このナショナリズムの性質は、次の「正統」との関係にも関わってくる。

正統、O異端、H異端

日本の精神世界、宗教界における「正統」とは、現在においても国家神道天皇崇拝である。そこからどれだけ距離を取るか、あるいは反天皇かという振れ幅はあっても、他に大きな求心力を持つ軸は存在しない。だから異端性を持つ宗派であっても、この軸さえ保っていれば大同団結でき、日本会議自民党を通して政治に関与することができる。逆に言えば、この軸を持たない宗派は日本会議に参画できず、その異端性のために他の勢力とも団結できない。政治参加を望むのであれば、独自に政党を作り、独自候補を立てるという手法を採ることになる。

本書では安丸良夫の理論を援用し、この「正統」と、正統の一部をその権威の拠り所としている「O(オーソドキシィ)異端」、天皇制的正統とは全く異なる思想的軸を持つ「H(ヘテロジーニアス)異端」の3つの分類を使う。

日本会議に参加するO異端的な宗教を挙げると、解脱会国家神道の在家講的存在である。手かざしで有名な真光系の崇教真光は、かなり積極的に現代医療を否定し、竹内文書の世界観を取り入れているなど異端的傾向が強いが、天皇は特別な存在として認め、日本中心主義、精神主義的な教義を持っている。

対してH異端的な宗教を見ると、創価学会は言うまでもなく日蓮宗系であり、政治進出のそもそもの目的は、日蓮の遺言である国立戒壇の設置であった。2代目会長戸田城聖は国教化が目的ではないとはしていたものの、天皇の法華教帰依を布教や国立戒壇設置の近道と考えていた。過去仏門に帰依した天皇上皇も多かったことを考えれば不可能ではないかもしれないが、明治以降の国家神道とは根本の部分で思想を異にするのは確かだろう。現在の創価学会は他の多くの日蓮宗系の諸派と同じく、(少なくとも国家施設としての)国立戒壇を設置するという目的は持っていないようだが。

幸福の科学幸福実現党も、政治的な主張は一見保守的だが、大川隆法への個人崇拝が根本である。霊言などでの扱いを見ても、天皇神道が世界観の中心にいないことは間違いない。

 

とまあ真面目な本なんですが、新興宗教に対する雑学的な興味で読んでも面白かったですよ。オウムと幸福の科学の、政治への期待と挫折については並べてみるといろいろと興味深いし、アイスター和豊帯の会女性党の実態については本書を読むまで全く知らなかった。「これからの時代は女性が作る」とかパプテマス・シロッコみたいなこと言ってる実業家がいるんすね。

スプラトゥーンのどこが面白いのかという個人的な話。

ウデマエがB-から上がらないんですけおおおおおおおおお

あ、フェスではなんかしらんけどホットブラスターぶっ放してるだけで結構勝てました。わかばや銀モデラーで色塗りに集中している人が多いみたいなので、中距離で戦うのがいいのかもしれませんね。チョーシが10超えたの初めてです。すぐに7ぐらいまで下がりましたけど。バリア張ったわかば相手に真正面から弾を当て続けて倒した時が一番楽しかったです。

f:id:type-100:20150614002323j:plain

さて、スプラトゥーンを今のところはすごく楽しめているのですが、個人的にどういうところが楽しいのか考えてみたいと思います。

弾の当たり外れの納得感

 いままでやってきたシューター系のゲームを振り返ってみる。CoD:Gはなんかキャンペーンモードがさっぱり面白くなかったのでそこで諦めた。BF4はそこそこ続けたんだけど、イマイチハマりきれない感があった。何が楽しくなかったのかというと、弾の当たり外れに納得感がないのが理由だったのではないかと思う。弾を撃ってるとなんかよく分からん間に殺したり殺されたりする。単にお前のエイムが下手なだけだと言われればその通りなのだが、まあとにかく死ねばイライラするだけで、殺しても満足感がなかったんである。

その点タイタンフォールは良かった。スマートピストルは敵に数秒標準を合わせ、3回ロックオンして引き金を引けば確実に敵を倒せる。的を合わせて引き金を引けば敵が倒れる。実に分かりやすい。昔のえらい人は銃は殺人の罪悪感を軽減させるって言ったらしいが、満足感も軽減させるんだろう。

ボーダーブレイクも結構やっていたんだけど、重火力武装で炸薬砲・チャージカノン・榴弾砲に爆発範囲拡大チップを付けるという頭の悪いカスタムばっかり使っていた。豆鉄砲と違って爆発物はあたった範囲が見えるので楽しい。

スプラトゥーンは撃った弾がどこに着弾したのかすぐに分かる。トリガー押しっぱなしで問題ない武器が多いので、撃ちながら修正すれば良い。敵を倒せば派手にインクが飛び散る上に、それによって生まれるアドバンテージも分かりやすい。自分が死ぬときもそれ以前に機動力を奪われたことを感じることが多いし、上手くやればかわせたと感じることも多い。自陣にさえいれば機動力は高いしインクに潜ることもできるので、突出したり背後を取られたりしなければ、射程で負けていてもそうそう一方的にやられることはない。一度逃げて後ろで自陣を固めててもポイントになるし、前線で生き残っていれば、大抵誰か味方がやってきてくれるもんである。プレイしてて楽しいし、もっと改善できることが直感的にわかるのでもっとやりたくなる。

ただ動きまわるのが楽しい

シューター系ゲームはどうにも移動が面白く無い。どこにいるのか分からんスナイパーを気にしながらチンタラ地べたを這いずりまわるわけだが、なんというか、緊張感を維持したまま作業としては単純なことをするというのが性に合わないのだと思う。タイタンフォールが面白かったのも、パルクールアクションがあるために移動の自由度が高く、ただの旗の間を動くだけでも色々と考える余地があり、単純な操作で視覚的な面白さがあったからだと思う。

スプラトゥーンも同じように、動きまわるのが楽しい。地面や壁をインクで塗ることで機動力を上げ、隠れながら進めるのだが、武器ごとにインクを塗れる範囲が異なるので、操作キャラの性能が全く一緒でも、武器によって動かし方が異なる、というのはよいアクセントになっていると感じる。

 

了解と承知はどちらが丁寧か? 北原保雄VS中村明

賢明なるはてなー諸兄なら、承知と了解のどちらが敬意を含んだ表現かという問題があることはご存じだろう。

「了解」は失礼か? - アスペ日記

失礼以前に「了解」と「承知」は意味が違うじゃん? - 最終防衛ライン3

最初に個人的な使い分けを書いておくと、僕は会社の上司など「身内」の人間からの依頼には「了解」を、顧客など「外部」の人間からの依頼には「承知」を使う。

「了解」には依頼内容の背景や相手の事情を理解した上で、自分の事として引き受けるという意味合いがある(と僕は思っている)。同じ社内の人間であればある程度の事情は知っており、責任や目的などを共有すべきなので、(実際がどうかにはかかわらず)「了解」を使う。顧客など外部の人間とはそこまでの一体感がなく、また安易に示すべきでも無いと思うので、単に依頼内容を把握して引き受けた、という意味合いで「承知」を使う。外部の人間でも、ある程度やりとりを繰り返して関係を構築した後なら、「了解」を使うかもしれない。

あと、「承知」という言葉を相手に使われた場合、「お前の言うことは分かったけど、それについてこちらがどうするかはこれから検討するよ」という意味合いを感じるのに対し、「了解」の場合はすぐに実効してくれるのだろうなと感じる。

もちろんこういう感覚を共有していたとしても、「お前ごとき下っ端がこちらの事情を理解しているなどおこがましい」という反応をする上司もいるかもしれないが、それはまあ知ったこっちゃない。

 

さて、了解が失礼だという認識が広がった大きな理由の一つには、おそらく「明鏡国語辞典」がある。この辞書は言葉の使い分けについての記述が多い(そしてその基準が個人的にはあまり同意できないことが多い)のが特徴の辞書なのだが、「了解」の項の<表現>に以下のようにある。

近年目上の人の依頼・希望・命令などを承諾する意に使う向きもあるが、慣用になじまない(ぶっきらぼうで敬意が不足)。「分かりました」「承知しました」のほか、「承りました」「かしこまりました」などを使いたい。

明鏡国語辞典の編集者として有名な北原保雄が筆頭編著者になっている「問題な日本語 その4」のコラムにも以下のようにある。

上司に「報告書を至急上げてくれ」と言われ、「了解しました」と答えるのは、言葉の誤用ではない。しかし、部下などの目下の人にこう返事されると、失礼だと感じる人が少なくないようだ。「了解した」は、理解した、理解して承認した、という意味。「了解しました」はそれに「ます」を続けて丁寧な言葉遣いにしているのだが、意味としては変わらない。相手によっては、偉そうな言い方だと思われてしまう。 

しかし、ほぼ逆の語釈をしている辞書もある。

中村明著「日本語 語感の辞典」の「了解」の項には

理解した上で納得する意で、やや改まった会話や文章に用いられる漢語。(中略)結果に重点を置く「了承」に比べ、趣旨を十分に理解するという過程が前提になる。 

 「承知」の項には

知っている 、要求などを聞き入れる意で、会話でも文章でも広く使われる日常の漢語。(中略)「承諾」とは違って、認めるところまで言及せず単に知っている。段階までをさす用法もある。そのため、同じ意味で使っても、「承諾」より軽い感じになりやすい。

とある。中村が監修している大辞泉の「了解」の項にも<用法>の欄で同じような解説が書かれている。

この語釈はほぼ僕の感覚と一致する。「承知しております」といった場合の「承知」には「知っている」という意味しかないこともあって「承諾する」という意味で「承知する」を使うには心理的な抵抗がある、というのは辞書を繰る中で気付かされたことだった。「現代国語例解」の「了解」の項にも以下のようにある・

「了承」が相手の示した案などを認める手続き上の行為とされるのに対し、「了解」は内心で理解し、認めるような場合にもいう。

「了承」は手続き上の行為とあるが、僕は「承知」にも同じような意味合いを感じている。

他に僕の感覚に近いものとして、「類語活用辞典」の「了解」の項に

<承知>は、あいての願いや希望、要求などを認めたうえで、自分のこととして引き受けるという点に意味の重点があるが、<了解>は、そのことの事情や理由などがよく分かって、認めるという点に意味の重点がある。

とあった。ちょっと意味が取りづらいのだが、「承知」は引き受けること、「了解」は理解していることに意味の重点があるということだろうか。

今回の件から我々が得るべき教訓は……、辞書を引く時には複数のものをあたり、話半分に受け入れて、自分に都合のいいものを使え、ということだろうか。

 

以下蛇足だが、興味深いものとして、「新明解国語辞典」の「承知」の<運用>には

「承知していない」の形で、正規の手順を経て伝えられていないから話題として取り上げる価値がない、という気持を表すことがある。

「了解」の<運用>には

相手からの指示・命令に対して納得したことを表す返事として用いられることがある。

とあった。

 

関谷あさみ「僕らの境界」

 f:id:type-100:20150210184434j:plain

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4863494777www.amazon.co.jp

エロマンガの話をしよう。(提案)

アフィ使ってないからどうでもいいけど、Amazonの広告貼れないでやんの。

女性の成人向け漫画家らしく(といっても他に岡田コウいとうえいぐらいしか知らないが)、ふっくらしたかわいい少女と感情の機微、そして鬱々とした雰囲気に定評のある関谷あさみの新刊である。本書収録のお話には「『僕』らの境界」のタイトルだけあって、男主人公から見た他者との断絶についての話が多い。体が一つになるからこそ心の距離を感じる、などというと陳腐すぎるだろうか。

分かりやすいところでは、以前触れた「山」は、恋に恋して大人との進んだ恋愛を楽しんでいる少女と、田舎的なリアルでチープな絶望に打ちのめされている高卒社会人の話だ。 前は「鬱屈した不満のはけ口として性欲で解消、みたいな主人公がなんというか生理的に受け付けなかった」などと書いたんだけど、単行本描き下ろしの続編でよりはっきりしたんだが、少女の側も本当に男を愛しているんじゃない。少女は男を利己的に使ってるだけで、いずれ男を捨てて、田舎を出て、成長していってしまう存在として描かれてる。そういう男を本質的に眼中に入れていない、天空神的な性質をもつ存在が、上の表紙絵の可愛らしい少女だと思うと興奮しますね。

「暑い夜」「溺れる夜に」の連作は少年と大人の断絶がテーマのような気がするが、ちょっと解釈に困っている。「dog's imagination」は思春期の男から見た理解不能な存在としての少女がテーマだろうか。

そういう暗い作品だけというわけではなく「ラストキング」はほぼ甘々でやってるだけのお話だし、「走れ!」は断絶を越えて一歩踏み出すラストがほろ苦く、少しさわやかな余韻を残す。ヒロインのジト目の妹ちゃんが可愛いこともあって、この「走れ!」が本書の中で一番気に入ったエピソードだろうか。やっぱり雰囲気が鬱々としてるとイマイチ実用性に欠けるしね!

表現の自由の「仕方のない犠牲」

 秋葉原は最低だ。女性が声をあげなければ「男さえ気持ちがよければいい社会」が続いていく - Togetterまとめ

ゾーニングには反対なので、女性的な欲望をもっとおおっぴらにする方向に持っていきたい。

2015/04/06 16:29

 前も書いたけど露出度高いとかセックスアピールがキツイ絵はあんまり好きじゃないし、少なくとも性欲高まってないときに見るとちょっと嫌な気分になるんですよ。秋葉原とはいえ街中でエロい絵を見たいとは全然思わない。

type-100.hatenablog.com

 けど俺の個人的な趣味嗜好を抜きにして、何が正義か、何が理想的な社会というのを考えると、やっぱりあらゆる人間が表現したいものを自由に表現できる、見たいものを自由に見られることが理想だろうとしか思えない。そして言いたくないけどあえて露悪的なことを言うけど、その 仕方のない犠牲コラテラル・ダメージ として、表現によって傷つく人間がいても甘受されるべきだと思うのです。

そもそも表現の自由を含め、全ての自由権は他人の利益を侵害することへの免罪符としての性質を持つのではないか。みんなが各々好きなことをすれば、他人の行動によって損をしたり不快になったりして対立が生じる。その時社会は対立する二者のどちらを立たせるのか、というのが法によって権利を規定する意義であり、国や社会ごとに法が異なる理由だと思います。

で、俺が理想とする社会は、どんなに無価値でも、下劣でも、間違ったものでも、とりあえず表現する時点では排除しない、というものです。美醜とか善悪とか正誤とかいった判断は絶対的なものではない。だから個々人が己の考えていることを多くの人の目に晒し、世に問う機会を奪ってはいけない。対抗する意見を持つものも自由に発言し、両者の綱引きの中で社会的な合意が生まれ、どこかに線が引かれて落ち着く、というのが理想です。もしくは落ち着かずに延々と争いが繰り広げられたとしても、なあなあにされたまま、誰かが言いたいことを言えずに抑圧されたままでいるよりは良いことだ、と思うのです。

で、表現の自由の中には、表現の範囲や方法も含まれるがゆえに、見たくないものを見なくてすむ自由というのは、「時計じかけのオレンジ」的に顔面を固定して映像を見せられるのを拒否する、みたいな身体の自由に関する場合しか認められない。ゾーニングを流通・販売が自主的にやるのではなく、他者が押し付けるのも賛成できない。

もちろんこれは空想的で暴力的な理想論です。俺が他者の表現によって深刻に傷ついたことがない(例えばレイプ被害者が性表現を見た時にトラウマが蘇るような)というのもある。デマやヘイトスピーチなど具体的な被害が生じる場合にどう対処すべきかの答えを持っているわけでもない。世の中義理があれば人情もあり、俺自身の中にも傷つく人について、正義だからといって目を瞑っていいわけがないという思いもあります。

さらに言えば、こういう俺の正義は、多数決を取ればきっと負けてしまう類のものでしょう。表現の自由を第一に置くような価値観をしている人間は、多分どこにいっても少ない。多数派と折り合いをつけてなるたけ表現の自由を維持・拡大するためには、本当はこういうことをおおっぴらに書かないほうが多分良い。けどやっぱり、俺が正しいと思うのはこっちだという、グダグダとした情動があるのです。

「唐突」と「突然」

「唐突」と「突然」という熟語がある。どちらもおおむね「いきなり」という意味の言葉だが、使われ方には少し差がある。

「唐突」はいわゆる形容動詞 - Wikipediaだ。終止形なら口語は「だ」、文語は「なり」が後について使われる。「突然」も形容動詞だが、個人的な感覚かも知れないが、「だ・なり」を付けて使うのは少し抵抗がある。また、「突然」は「突然走りだす」のように単独で副詞として使える。「唐突走りだす」とは言わないだろう。さらに後ろに「の」を付けて「突然の訪問」のように一部の名詞を修飾できる。同じように「の」を付けられる副詞には「いささか」「かなり」「なかなか」などがあるが、これらは過去に形容動詞として使われていたが、いまではほぼ副詞としてのみ使われるものだ。「全然」も同じように形容動詞から副詞に移行する過渡期にあるのかもしれない。

日本国語大辞典を見ると「唐突」の用例は古い。718年の律に「若畜産唐突」とある。ここでは動詞として使われており、「若い家畜が突然走りだした」という意味だろう。字通によれば「唐」という字はもともと儀礼を行う広間のことを指し、広い・大きい、また広い道という意味がある。「唐突」も、もともとは広い道を不意に走りだすことを言い、そこから転じて「いきなり」という意味を持つようになったのだろう。形容動詞としての用例も続日本後紀(836年)から見られる。

それに比べると「突然」の用例は新しい。形容動詞としては寛永刊本蒙求抄(1529年)の「思ひもよらず、突然として出ぞ」、副詞としては新令字解(1868年)の語釈が用例としてあった。

「突然」と似た副詞として「断然」「全然」も見てみよう。「断然」も「全然」も19世紀中頃から形容動詞と副詞の両方の用例が見られるのだが、語誌の欄に面白いことが書いてあった。

「断然」の方には「形容動詞の用法が副詞化したもの」とあった。これはまあよいとして、「全然」の方にこうあった。

(1)近世後期に中国の白話小説から取り入れられ、「まったく」というルビを付けて用いられていた。
(2)明治期に入っても、小説では「すっかり」「そっくり」「まるで」「まるきり」などのルビ付きで用いられていることが多い。

白話小説とは中国の口語体で書かれた小説のことだ。

ここからは推測だが、「突然」を含めた「○然」という言葉は中国語の口語的表現で 、白話小説が日本で広まった近世以降に日本語に取り入れられたのではないか。「唐突」が「熟語+なり・たり」という一般的な形容動詞の形をとるのに対して、「突然」が外れた形をとる理由は私には分からないが、近世以降一般的な文語文体であった候文が関係しているのではないかという気はする。候文では多くの副詞が漢語のままカナを使わず書かれる。

「唐突なり」という言葉が早くから日本語取り入れられ口語としても定着したのに対して、「突然」のような新しい漢語はまず文章として輸入され、カナを使わない用法が口語にも取り入れられたのではないか。

 

2015/08/14追記

「自然」という人口に膾炙した言葉の影響もあるのかも知れない。

当然という意味の「自然」は形容動詞だが、nature・山川草木という意味での「自然」は名詞である。形容動詞と名詞で少し意味の範囲が異なる。

とはいえ「自然な成り行き」と言うべき所を「自然の成り行き」としても、今はもうあまり違和感はないかも知れない。