スプラトゥーンのどこが面白いのかという個人的な話。

ウデマエがB-から上がらないんですけおおおおおおおおお

あ、フェスではなんかしらんけどホットブラスターぶっ放してるだけで結構勝てました。わかばや銀モデラーで色塗りに集中している人が多いみたいなので、中距離で戦うのがいいのかもしれませんね。チョーシが10超えたの初めてです。すぐに7ぐらいまで下がりましたけど。バリア張ったわかば相手に真正面から弾を当て続けて倒した時が一番楽しかったです。

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さて、スプラトゥーンを今のところはすごく楽しめているのですが、個人的にどういうところが楽しいのか考えてみたいと思います。

弾の当たり外れの納得感

 いままでやってきたシューター系のゲームを振り返ってみる。CoD:Gはなんかキャンペーンモードがさっぱり面白くなかったのでそこで諦めた。BF4はそこそこ続けたんだけど、イマイチハマりきれない感があった。何が楽しくなかったのかというと、弾の当たり外れに納得感がないのが理由だったのではないかと思う。弾を撃ってるとなんかよく分からん間に殺したり殺されたりする。単にお前のエイムが下手なだけだと言われればその通りなのだが、まあとにかく死ねばイライラするだけで、殺しても満足感がなかったんである。

その点タイタンフォールは良かった。スマートピストルは敵に数秒標準を合わせ、3回ロックオンして引き金を引けば確実に敵を倒せる。的を合わせて引き金を引けば敵が倒れる。実に分かりやすい。昔のえらい人は銃は殺人の罪悪感を軽減させるって言ったらしいが、満足感も軽減させるんだろう。

ボーダーブレイクも結構やっていたんだけど、重火力武装で炸薬砲・チャージカノン・榴弾砲に爆発範囲拡大チップを付けるという頭の悪いカスタムばっかり使っていた。豆鉄砲と違って爆発物はあたった範囲が見えるので楽しい。

スプラトゥーンは撃った弾がどこに着弾したのかすぐに分かる。トリガー押しっぱなしで問題ない武器が多いので、撃ちながら修正すれば良い。敵を倒せば派手にインクが飛び散る上に、それによって生まれるアドバンテージも分かりやすい。自分が死ぬときもそれ以前に機動力を奪われたことを感じることが多いし、上手くやればかわせたと感じることも多い。自陣にさえいれば機動力は高いしインクに潜ることもできるので、突出したり背後を取られたりしなければ、射程で負けていてもそうそう一方的にやられることはない。一度逃げて後ろで自陣を固めててもポイントになるし、前線で生き残っていれば、大抵誰か味方がやってきてくれるもんである。プレイしてて楽しいし、もっと改善できることが直感的にわかるのでもっとやりたくなる。

ただ動きまわるのが楽しい

シューター系ゲームはどうにも移動が面白く無い。どこにいるのか分からんスナイパーを気にしながらチンタラ地べたを這いずりまわるわけだが、なんというか、緊張感を維持したまま作業としては単純なことをするというのが性に合わないのだと思う。タイタンフォールが面白かったのも、パルクールアクションがあるために移動の自由度が高く、ただの旗の間を動くだけでも色々と考える余地があり、単純な操作で視覚的な面白さがあったからだと思う。

スプラトゥーンも同じように、動きまわるのが楽しい。地面や壁をインクで塗ることで機動力を上げ、隠れながら進めるのだが、武器ごとにインクを塗れる範囲が異なるので、操作キャラの性能が全く一緒でも、武器によって動かし方が異なる、というのはよいアクセントになっていると感じる。

 

了解と承知はどちらが丁寧か? 北原保雄VS中村明

賢明なるはてなー諸兄なら、承知と了解のどちらが敬意を含んだ表現かという問題があることはご存じだろう。

「了解」は失礼か? - アスペ日記

失礼以前に「了解」と「承知」は意味が違うじゃん? - 最終防衛ライン3

最初に個人的な使い分けを書いておくと、僕は会社の上司など「身内」の人間からの依頼には「了解」を、顧客など「外部」の人間からの依頼には「承知」を使う。

「了解」には依頼内容の背景や相手の事情を理解した上で、自分の事として引き受けるという意味合いがある(と僕は思っている)。同じ社内の人間であればある程度の事情は知っており、責任や目的などを共有すべきなので、(実際がどうかにはかかわらず)「了解」を使う。顧客など外部の人間とはそこまでの一体感がなく、また安易に示すべきでも無いと思うので、単に依頼内容を把握して引き受けた、という意味合いで「承知」を使う。外部の人間でも、ある程度やりとりを繰り返して関係を構築した後なら、「了解」を使うかもしれない。

あと、「承知」という言葉を相手に使われた場合、「お前の言うことは分かったけど、それについてこちらがどうするかはこれから検討するよ」という意味合いを感じるのに対し、「了解」の場合はすぐに実効してくれるのだろうなと感じる。

もちろんこういう感覚を共有していたとしても、「お前ごとき下っ端がこちらの事情を理解しているなどおこがましい」という反応をする上司もいるかもしれないが、それはまあ知ったこっちゃない。

 

さて、了解が失礼だという認識が広がった大きな理由の一つには、おそらく「明鏡国語辞典」がある。この辞書は言葉の使い分けについての記述が多い(そしてその基準が個人的にはあまり同意できないことが多い)のが特徴の辞書なのだが、「了解」の項の<表現>に以下のようにある。

近年目上の人の依頼・希望・命令などを承諾する意に使う向きもあるが、慣用になじまない(ぶっきらぼうで敬意が不足)。「分かりました」「承知しました」のほか、「承りました」「かしこまりました」などを使いたい。

明鏡国語辞典の編集者として有名な北原保雄が筆頭編著者になっている「問題な日本語 その4」のコラムにも以下のようにある。

上司に「報告書を至急上げてくれ」と言われ、「了解しました」と答えるのは、言葉の誤用ではない。しかし、部下などの目下の人にこう返事されると、失礼だと感じる人が少なくないようだ。「了解した」は、理解した、理解して承認した、という意味。「了解しました」はそれに「ます」を続けて丁寧な言葉遣いにしているのだが、意味としては変わらない。相手によっては、偉そうな言い方だと思われてしまう。 

しかし、ほぼ逆の語釈をしている辞書もある。

中村明著「日本語 語感の辞典」の「了解」の項には

理解した上で納得する意で、やや改まった会話や文章に用いられる漢語。(中略)結果に重点を置く「了承」に比べ、趣旨を十分に理解するという過程が前提になる。 

 「承知」の項には

知っている 、要求などを聞き入れる意で、会話でも文章でも広く使われる日常の漢語。(中略)「承諾」とは違って、認めるところまで言及せず単に知っている。段階までをさす用法もある。そのため、同じ意味で使っても、「承諾」より軽い感じになりやすい。

とある。中村が監修している大辞泉の「了解」の項にも<用法>の欄で同じような解説が書かれている。

この語釈はほぼ僕の感覚と一致する。「承知しております」といった場合の「承知」には「知っている」という意味しかないこともあって「承諾する」という意味で「承知する」を使うには心理的な抵抗がある、というのは辞書を繰る中で気付かされたことだった。「現代国語例解」の「了解」の項にも以下のようにある・

「了承」が相手の示した案などを認める手続き上の行為とされるのに対し、「了解」は内心で理解し、認めるような場合にもいう。

「了承」は手続き上の行為とあるが、僕は「承知」にも同じような意味合いを感じている。

他に僕の感覚に近いものとして、「類語活用辞典」の「了解」の項に

<承知>は、あいての願いや希望、要求などを認めたうえで、自分のこととして引き受けるという点に意味の重点があるが、<了解>は、そのことの事情や理由などがよく分かって、認めるという点に意味の重点がある。

とあった。ちょっと意味が取りづらいのだが、「承知」は引き受けること、「了解」は理解していることに意味の重点があるということだろうか。

今回の件から我々が得るべき教訓は……、辞書を引く時には複数のものをあたり、話半分に受け入れて、自分に都合のいいものを使え、ということだろうか。

 

以下蛇足だが、興味深いものとして、「新明解国語辞典」の「承知」の<運用>には

「承知していない」の形で、正規の手順を経て伝えられていないから話題として取り上げる価値がない、という気持を表すことがある。

「了解」の<運用>には

相手からの指示・命令に対して納得したことを表す返事として用いられることがある。

とあった。

 

関谷あさみ「僕らの境界」

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エロマンガの話をしよう。(提案)

アフィ使ってないからどうでもいいけど、Amazonの広告貼れないでやんの。

女性の成人向け漫画家らしく(といっても他に岡田コウいとうえいぐらいしか知らないが)、ふっくらしたかわいい少女と感情の機微、そして鬱々とした雰囲気に定評のある関谷あさみの新刊である。本書収録のお話には「『僕』らの境界」のタイトルだけあって、男主人公から見た他者との断絶についての話が多い。体が一つになるからこそ心の距離を感じる、などというと陳腐すぎるだろうか。

分かりやすいところでは、以前触れた「山」は、恋に恋して大人との進んだ恋愛を楽しんでいる少女と、田舎的なリアルでチープな絶望に打ちのめされている高卒社会人の話だ。 前は「鬱屈した不満のはけ口として性欲で解消、みたいな主人公がなんというか生理的に受け付けなかった」などと書いたんだけど、単行本描き下ろしの続編でよりはっきりしたんだが、少女の側も本当に男を愛しているんじゃない。少女は男を利己的に使ってるだけで、いずれ男を捨てて、田舎を出て、成長していってしまう存在として描かれてる。そういう男を本質的に眼中に入れていない、天空神的な性質をもつ存在が、上の表紙絵の可愛らしい少女だと思うと興奮しますね。

「暑い夜」「溺れる夜に」の連作は少年と大人の断絶がテーマのような気がするが、ちょっと解釈に困っている。「dog's imagination」は思春期の男から見た理解不能な存在としての少女がテーマだろうか。

そういう暗い作品だけというわけではなく「ラストキング」はほぼ甘々でやってるだけのお話だし、「走れ!」は断絶を越えて一歩踏み出すラストがほろ苦く、少しさわやかな余韻を残す。ヒロインのジト目の妹ちゃんが可愛いこともあって、この「走れ!」が本書の中で一番気に入ったエピソードだろうか。やっぱり雰囲気が鬱々としてるとイマイチ実用性に欠けるしね!

表現の自由の「仕方のない犠牲」

 秋葉原は最低だ。女性が声をあげなければ「男さえ気持ちがよければいい社会」が続いていく - Togetterまとめ

ゾーニングには反対なので、女性的な欲望をもっとおおっぴらにする方向に持っていきたい。

2015/04/06 16:29

 前も書いたけど露出度高いとかセックスアピールがキツイ絵はあんまり好きじゃないし、少なくとも性欲高まってないときに見るとちょっと嫌な気分になるんですよ。秋葉原とはいえ街中でエロい絵を見たいとは全然思わない。

type-100.hatenablog.com

 けど俺の個人的な趣味嗜好を抜きにして、何が正義か、何が理想的な社会というのを考えると、やっぱりあらゆる人間が表現したいものを自由に表現できる、見たいものを自由に見られることが理想だろうとしか思えない。そして言いたくないけどあえて露悪的なことを言うけど、その 仕方のない犠牲コラテラル・ダメージ として、表現によって傷つく人間がいても甘受されるべきだと思うのです。

そもそも表現の自由を含め、全ての自由権は他人の利益を侵害することへの免罪符としての性質を持つのではないか。みんなが各々好きなことをすれば、他人の行動によって損をしたり不快になったりして対立が生じる。その時社会は対立する二者のどちらを立たせるのか、というのが法によって権利を規定する意義であり、国や社会ごとに法が異なる理由だと思います。

で、俺が理想とする社会は、どんなに無価値でも、下劣でも、間違ったものでも、とりあえず表現する時点では排除しない、というものです。美醜とか善悪とか正誤とかいった判断は絶対的なものではない。だから個々人が己の考えていることを多くの人の目に晒し、世に問う機会を奪ってはいけない。対抗する意見を持つものも自由に発言し、両者の綱引きの中で社会的な合意が生まれ、どこかに線が引かれて落ち着く、というのが理想です。もしくは落ち着かずに延々と争いが繰り広げられたとしても、なあなあにされたまま、誰かが言いたいことを言えずに抑圧されたままでいるよりは良いことだ、と思うのです。

で、表現の自由の中には、表現の範囲や方法も含まれるがゆえに、見たくないものを見なくてすむ自由というのは、「時計じかけのオレンジ」的に顔面を固定して映像を見せられるのを拒否する、みたいな身体の自由に関する場合しか認められない。ゾーニングを流通・販売が自主的にやるのではなく、他者が押し付けるのも賛成できない。

もちろんこれは空想的で暴力的な理想論です。俺が他者の表現によって深刻に傷ついたことがない(例えばレイプ被害者が性表現を見た時にトラウマが蘇るような)というのもある。デマやヘイトスピーチなど具体的な被害が生じる場合にどう対処すべきかの答えを持っているわけでもない。世の中義理があれば人情もあり、俺自身の中にも傷つく人について、正義だからといって目を瞑っていいわけがないという思いもあります。

さらに言えば、こういう俺の正義は、多数決を取ればきっと負けてしまう類のものでしょう。表現の自由を第一に置くような価値観をしている人間は、多分どこにいっても少ない。多数派と折り合いをつけてなるたけ表現の自由を維持・拡大するためには、本当はこういうことをおおっぴらに書かないほうが多分良い。けどやっぱり、俺が正しいと思うのはこっちだという、グダグダとした情動があるのです。

「唐突」と「突然」

「唐突」と「突然」という熟語がある。どちらもおおむね「いきなり」という意味の言葉だが、使われ方には少し差がある。

「唐突」はいわゆる形容動詞 - Wikipediaだ。終止形なら口語は「だ」、文語は「なり」が後について使われる。「突然」も形容動詞だが、個人的な感覚かも知れないが、「だ・なり」を付けて使うのは少し抵抗がある。また、「突然」は「突然走りだす」のように単独で副詞として使える。「唐突走りだす」とは言わないだろう。さらに後ろに「の」を付けて「突然の訪問」のように一部の名詞を修飾できる。同じように「の」を付けられる副詞には「いささか」「かなり」「なかなか」などがあるが、これらは過去に形容動詞として使われていたが、いまではほぼ副詞としてのみ使われるものだ。「全然」も同じように形容動詞から副詞に移行する過渡期にあるのかもしれない。

日本国語大辞典を見ると「唐突」の用例は古い。718年の律に「若畜産唐突」とある。ここでは動詞として使われており、「若い家畜が突然走りだした」という意味だろう。字通によれば「唐」という字はもともと儀礼を行う広間のことを指し、広い・大きい、また広い道という意味がある。「唐突」も、もともとは広い道を不意に走りだすことを言い、そこから転じて「いきなり」という意味を持つようになったのだろう。形容動詞としての用例も続日本後紀(836年)から見られる。

それに比べると「突然」の用例は新しい。形容動詞としては寛永刊本蒙求抄(1529年)の「思ひもよらず、突然として出ぞ」、副詞としては新令字解(1868年)の語釈が用例としてあった。

「突然」と似た副詞として「断然」「全然」も見てみよう。「断然」も「全然」も19世紀中頃から形容動詞と副詞の両方の用例が見られるのだが、語誌の欄に面白いことが書いてあった。

「断然」の方には「形容動詞の用法が副詞化したもの」とあった。これはまあよいとして、「全然」の方にこうあった。

(1)近世後期に中国の白話小説から取り入れられ、「まったく」というルビを付けて用いられていた。
(2)明治期に入っても、小説では「すっかり」「そっくり」「まるで」「まるきり」などのルビ付きで用いられていることが多い。

白話小説とは中国の口語体で書かれた小説のことだ。

ここからは推測だが、「突然」を含めた「○然」という言葉は中国語の口語的表現で 、白話小説が日本で広まった近世以降に日本語に取り入れられたのではないか。「唐突」が「熟語+なり・たり」という一般的な形容動詞の形をとるのに対して、「突然」が外れた形をとる理由は私には分からないが、近世以降一般的な文語文体であった候文が関係しているのではないかという気はする。候文では多くの副詞が漢語のままカナを使わず書かれる。

「唐突なり」という言葉が早くから日本語取り入れられ口語としても定着したのに対して、「突然」のような新しい漢語はまず文章として輸入され、カナを使わない用法が口語にも取り入れられたのではないか。

 

2015/08/14追記

「自然」という人口に膾炙した言葉の影響もあるのかも知れない。

当然という意味の「自然」は形容動詞だが、nature・山川草木という意味での「自然」は名詞である。形容動詞と名詞で少し意味の範囲が異なる。

とはいえ「自然な成り行き」と言うべき所を「自然の成り行き」としても、今はもうあまり違和感はないかも知れない。

自分を曲げたお前には、もう二度と、ラッキーはやらない!

 

相棒シーズン13 最終回「ダークナイト」改善案 - あざなえるなわのごとし

偽物を暴行したのもそうだけど、そのために友人を使ったのがサイテーにダサい。甲斐が自分で別の暴力犯を制裁し、そこにアリバイトリックを持ってくればよかった。

2015/03/23 20:58

 ダークナイトの予告を見た時、「杉下右京の圧倒的な正義の前に、周囲の者が歪んでしまう」みたいなテーマを期待した。そういうの好きだ。テーマは概ねそんな感じだったのだが、なんというかお話がショボくてどうにも。

最初から甲斐が犯人であることを示唆する演出が露骨だったので、実は甲斐は友人をかばっているだけじゃないかとおもったら別にそんなこともなく普通に甲斐が犯人だった。どんでん返しとか起承転結の転みたいな要素もなく、アリバイトリックらしきものも大したことなかった。一応推理モノなのにどうなの。

せめて悪役が魅力的ならドラマとして良かったのだが、そこら辺も不満だった。上のブコメで書いたように、既に法の裁きを受けることが決まっている偽物をわざと逃して私刑を加え、しかもその実行犯に、過去に恩を売った友人を使うというダサさ。

今まで用意周到に完璧な犯行を行っていたダークナイトだったが、偽物が逮捕されたためにやむを得ず急遽犯行を行ったために初めてボロを出した、みたいな展開なら面白かった気がするんだよなあ。

天のバブみと地のバブみ

バブみという言葉には違和感を持っていた。少女に母性を求めるという趣味は非常によく分かるのだが、音が汚い。3分の2が濁点って、怪獣やロボットじゃないんだから。あとバブみを感じるキャラとして、高校生ぐらいのいかにも包容力がある、まあ要は巨乳のキャラを挙げている人がいるのもよく分からなかった。バブみってそういうものか? 雷ちゃんや桃華ちゃまみたいな少女だけど包容力がある、みたいなキャラに使うのはまだ分かるが、もっと無垢な、なんなら頼りないぐらいの少女に母性を感じるのがバブみの面白さじゃないのか? え、もりくぼに母性を感じたこととか無理やり甘えたいとか思ったことあるでしょ? 無い? おかしいなあ……。

まあ「頼りがいのある幼女」にしても、単なるギャップ萌えにとどまらない何かがあるんじゃないかと思って、ユングの提唱した元型の一つである「太母(マグナマーテル)」についてちょっと調べていた。元型とは、阿頼耶識とか普遍的無意識とか歴史の記憶とかみたいなもので、まあ言葉を重ねるほど胡散臭くなるので置いておく。

 で、下の創元社ユング心理学辞典」の「太母」の項の説明に興味深いものがあった。

ユング心理学辞典

ユング心理学辞典

  • 作者: アンドリューサミュエルズ,フレッドプラウト,バーニーショーター,Andrew Samuels,Fred Plaut,Bani Shorter,浜野清志,垂谷茂弘
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 1993/12
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ユングは、元型論によって、母親が子供に及ぼす影響は、必ずしも一個人としての母親自身やその実際の性格特徴に由来しているわけではない、という仮説を立てるにいたった。さらに、母親が所有しているようにみえながらも、実際には「母親」を取り囲む元型構造に由来するさまざまな特質があり、子供がそれを母親に投影している、ということがある。
太母とは、集合的な文化経験から引き出された一般的なイメージに対する命名である。イメージとして元型的性格を十二分に発揮し、肯定ー否定の両極性をもあらわにする。乳児は母親に対する幼い頃の依存と傷つきやすさとを肯定ー否定の両極にはりめぐらせることで、自分の経験を系統づけていく。肯定の極にまとめあげられる特質は、次のようなものである。「母親らしい心くばり、いたわり。女性特有の呪術的な権威。理性を超えた知恵と霊的高揚。助けとなる本能、衝動。慈悲深いものすべて、育み、支え、成長と豊穣を促進するすべてのもの」。要するに、良い母である。「すべての秘密、隠蔽、暗黒。奈落、死者の国。呑み込み、誘惑し、害をなし、運命のように逃れられない、身の毛のよだつものすべて」。

まあ要は、母親の実際がどうであれ、子どもが母親に抱く偶像があるという話であり、幼女に母性を見だすというのもそれと関係があるんじゃないかと思ってそもそも元型について調べていたわけだ。

で次が重要なのだが。

以上の、個人的/元型的、良い/悪いの二元性のほかに、大地的/霊的の二元性を付け加えなければならない。すなわち、地下に住む、農耕にかかわる太母と、神聖で、天上的、処女的な形態をとって現れる太母である。この二元性も、乳児が抱くようになる普通の母親イメージに、その反映をみてとることができる。

 『神聖で、天上的、処女的な形態をとって現れる太母』。ここで膝を打った。我々が少女に感じる母性も、天上神的性格のものと、地母神的性格のものがあるのではないか。すなわちこれが天のバブみと地のバブみである。あるいは、タロットの女教皇と女帝のイメージに、それぞれ天と地を割り振ることもできるかもしれない。

地のバブみ

 地の方はある意味わかりやすい。子どもを育むと同時に支配し、我が娘のためならば悪事も自己犠牲も厭わない、凄まじきものとしての母である。

保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。度胸の好いい母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来如何いかなる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々づうづうしい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。空には南風みなみかぜの渡る中に円まるい春の月が一つ、白じろとかすかにかかつてゐる。……

芥川龍之介「あばばばば」

 ガンダムなら、「勝った者を、私が全身全霊をかけて愛してあげるよ!」と言ったカテジナさんや、「お母さんをやりたければ、自分で子供を産んで、それでやってくださいよ!」とウッソに言われたルペ・シノは地のバブみを体現していると言っていいだろう。

天のバブみ

天の方は自分でもまだはっきりとは掴みかねているのだが、少女的な、無垢さ・純粋さ・神秘性などに母性を見るものだ。シャアが「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」と言ったアレである。シロッコが言った「私は次の時代を動かすのは女性だと思っている」や、ザンスカール帝国のマリア主義も、天空神的母性に期待してのものだろう。地母神的母性は、家族的・肉体的な性格が強いものだからだ。

 

この二つの属性は相反するというよりは互いに高め合うような性質のものかもしれない。「幼い少女が包容力のある性格をしている」という場合でも、単にギャップ萌えというだけではなく、そのような二つの属性を持つ事こそが「母性」を高めているのではないか。