「つめる」には「言葉でおいつめる」という意味がもともとある

「詰る(なじる)」っていう字が読めなくて、「キツル、キツル」っていっ..

「詰める」って言葉

「詰める」の意味が変わってきてない?(例:上司に激詰めされる)

全部一人が書いたのかは分からないが、増田で「『つめる(詰める)』を問い詰めるという意味で使うのは『なじる(詰る)』との混同だ」と主張している人がいるようなので。

 

日本国語大辞典から引用

(2)身動きができないような状況に至らせる。

(ロ)対処できないような状況に追い込む。ゆきづまらせる。「問いつめる」「言いつめる」のように他の動詞と複合しても用いる。

米沢本沙石集「小禅師にてありし時も人をつめしが、当時も人をつむるやとぞ申されける」

 この沙石集(鎌倉時代本地垂迹的な仏教説話集)の用例がどういう状況かというと、以下のようなものだ。

少納言入道信西藤原通憲)の13回忌に親族や高僧が集まり、法会を開く事になった。その法会の総括役に信西の孫で高野山に隠遁している明遍僧都を呼ぼうとしたが、「遁世の身なので」といって出てこようとしない。親族たちは「遁世の身だからといって親の供養もしないのか。高名な坊主の言うこととは思えない」と文句を言ってもう一度使者を送った。

すると明遍は「別に俺だって親の供養はしたいよ。けどお前ら遁世を何だと思ってるの? 身内の葬式って言っても南北二京から有名な僧侶招いてるじゃん。そんなところに出ていって講師役を勤めたら、朝廷や他の貴族に呼び出されたときに断れないだろ。けどまあ親不孝になりたいわけじゃないから代役は送ってやるよ」と言って弟子を寄越した。

親族たちはこの返事を聞いて「小禅師にてありし時も人をつめしが、当時も人をつむるや」(小禅師だった時も他人をやり込めていたが、今もそうなのだなあ)と言った。

 つまり言葉を持って人をやり込めることを「つめる」と言うのは、鎌倉時代からある用法なのだ。「いっぱいにする」「身動きが取れなくなる(自動詞つむ)」というような意味でより古い用例があるため、本来の意味とまでは言えないだろうが、「問い詰める」の意味も古い用法なのだ。

現代では一般的でない、時代がかった使い方かもしれないが、別に「なじる」との混同だとあえて推定する必要はないだろう。

藤田弘夫「都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか」

 

都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか (中公新書)
 

都市の権力は自由にする

以下個人的な要約。

 古今東西、国が飢餓状態になったときは、まず食料を生産しているはずの農村から飢える。富山の米騒動ウクライナの飢餓輸出、アイルランドのジャガイモ飢饉の時、東京やモスクワやロンドンは、少なくとも相対的には飢えていなかった。

何故か。都市に権力があるのに対して、農村には無いからだ。ある農村が飢えたとしても、都市はその政治的、経済的な権力を用いて別の農村から、あるいは国外からも食料を調達し、蓄積することが出来る。それに対して農村には、都市から食料を持ってくるような力はない。

都市が飢える状況というのはただ一つ。戦争に負けて既存の権力が崩壊した時だ。日本ならば戦後すぐの時代、都市の住民が農村まで直接出向いて、物々交換で米を手に入れていたという。通貨が信用を失い、強制的な徴税・徴発も出来なくなったとき、食料を農村から都市に動かす力が無くなるのである。

 

 都市と権力は一体である。権力は都市に住む人々の生活を安全・経済・宗教・教育・医療・文化・情報など様々な形で保障し、その住民の支持を得ることで存続する。生活の保障のためには様々な施設と資源が必要になるため、必要な者は周辺の農村から集められる。農村から都市に移される食料は、農村の自給自足分を超えた〈絶対的余剰〉ではない。都市は都市が必要な分だけを〈社会的余剰〉として調達・備蓄する。

人間が集住すると土地の不足や伝染病の発生など、様々な不自由が生じる。にもかかわらず人間が集住し都市が生まれるのは、都市無くして権力無く、権力無くして長期的な生活保障はできないからである。逆に権力が様々な資源を、特に生存の為に最も必要な食料を都市に用意できないことは、権力の正統性そのものを揺るがしてしまう。

 

現代ではグローバリズムナショナリズムの進展の中で、先進国全体が都市に、途上国全体が農村になっている。先進国の中の農村には膨大な補助金が投入される。途上国では首都などごく一部の都市にのみ資源が集められる。社会主義国の計画的な経済の中では都市と農村は厳格に峻別され、資本主義国よりも都市と農村の格差が大きくなってしまうことさえある。

 

というような本だが、非常に面白かった。

現代においても権力の中心に食があるというのは常々思っていたことである。同じ飯を食らうことが同胞意識を育てる。普段進歩的なことを言っている人間でも、食の話になればとたんに保守的になるのはよくあることだ。

「足りないと言ってもあるところにはある」というのはよくあるが、江戸時代の飢饉でも江戸に押し寄せた農民に米が配られた。彼らが農村にとどまっても座して死ぬだけだっただろう。農村が一つや二つ潰れたところで藩も幕府も対応しない。例外的に対応すれば(そして成功すれば)、義民伝説や名君として美談になり、後世まで語り継がれる。しかし首都で飢えた民が溢れれば、伝染病の発生・治安悪化・暴動への恐れからお上も対応しないわけにはいかないわけだ。

アラブの春でも、首都の住民が政権に反旗を翻せば、例え非武装に近いデモでも政権が倒れる場合があった。一方シリアでは、湾岸諸都市や首都ダマスカスを何とか維持したアサド政権が、長く続いた内戦を制しつつある。都市住民の強固な支持があれば、地方を失っても権力はかなりの間持ちこたえられる証拠だろう。

先進国内部でも、NIMBY施設に都市と権力の論理は見られるだろう。核施設や軍事基地が地方に多く都市に少ないのは、地理的な理由だけではない。そこで生み出されるエネルギーや安全などの資源を都市が享受するためだろう。

本書は後書きで著者本人が書いているように、新書らしく一般向けの平易な文章で非常に読みやすい。理論先行でデータが少ないように見えるので、そこら辺は前著「都市と権力」を読めということなのだろう。

欲望の逆張り

この増田(厄年なのに据え膳がマブい)も肯定的な反応が欲しいならこっちの増田(「手、冷たいですね」ってやめろよ!)ぐらい無邪気に書いとけば良かったのに。

欲望が透けて見えると逆張りされるのが古き良きインターネッツだよなあ。

 

「前」とは見えている範囲

 

前後ぉ/////

時が前に進むと誰が決めたんだ→確かに1日前には進まない

2017/03/17 01:37

日本語の「まえ」は本来「目方」と漢字をあて、「尻方(しりえ)」と対になる言葉である。つまり「まえ」の中心的な意味は「自分の見ている方向」あたりになるのだろう。未来は見えないが過去は自分が見てきた範囲である。それ故時間については進行方向後ろが「まえ」になる、という風に理解しておく。

「丸み」は丸められない

 

「○○み」っていう表現ヤメロ

いや例えば、凄さと凄みって全然違うよね。ある表現が嫌いでもこういう適当な批判をしてはいけない。/「さ」は自分が受け取った感覚、「み」は対象の性質に重点を置いた表現と捉えるべきでしょうね。

2017/03/05 19:52
動詞の連用形で概念を表す名詞化することから来てるんじゃないかなあ 悲し..

最初俺もそう考えたが、この理屈だと文語高むの名詞形「高み」と、口語高める名詞形「高め」の意味が一緒にならないとおかしい。形容詞「高い」の語幹に接尾語「む」がついたと考えるべきだろう。

2017/03/06 10:03
「○○み」は概念そのもの、「○○さ」は定量的な判断を加味している。 だ..

この辺の感覚は曖昧なので「真剣み」とか逆にちょっと使いづらくなってる気もする。

2017/03/06 10:13

ブコメで言いたいことは大体書いてしまったので以下取り留めも無く書き散らす。

日本国語大辞典には「み」について以下のようにある。

形容詞または形容動詞の語幹に付いて名詞をつくる。

①そのような状態をしている場所をいう。「高み」「明るみ」「深み」など。

②その性質・状態の程度やその様子を表わす。「さ」と比べると使われ方は限られる。「厚み」「重み」「苦み」「赤み」「面白みに欠ける」「真剣みが薄い(たりない)」など。

補注

②の中には、漢語の「味」と混同して意識され、「味」をあて字として用いることも、近代には多い。

よく言われる「○○み」への違和感というのは、「バブい」とか「わかりい」とかいった元になる形容詞が無いのに「バブみ」や「わかりみ」といった派生形だけが使われていたり、普通は「み」を付けない形容詞に対して使われているからであって、単に「それは元来「○○さ」が担ってきた役割だ」というのは全く的外れだ。両者は意味が違うので、当然「担ってきた役割」も別だからである。標準的でない「○○み」という言葉が使われている場合、話者は多くの場合「○○さ」には収まらない意図を伝えようとしているのである。

で、「力む」→「力み」のようにマ行4段、5段活用動詞の連用形は名詞としても使われるため、これが拡大して使われるようになったのではないかと当初は思っていた。この場合「丸み」「高み」に対応する動詞「丸む」「高む」などは耳慣れないが、文語には存在する。

しかしブコメにも書いたように、文語「丸む」は口語「丸める」に相当するにもかかわらず、それぞれの連用形「丸み」と「丸め」は明らかに違う意味の言葉である。正確に言うと、かつては文語「丸み」も「丸めること」という意味を持っていたのかもしれないが、現代に生きる我々はそう解釈しない。接尾語「み」は日国に書かれているように、場所や属性を示すという独自の役割を持っているのだ。

つまりこの増田(「○○み」は、もともとは場所を表す名詞化だったのかな 「深みにはまる」..)が言っているいることは全く正しい。なにやら揶揄するようなトラバが付いているが、何が問題なのか説明してほしいものだ。

敬語とは遠ざけること

 

配偶者のニュートラルな呼び名

奥も旦那も語源から離れた敬語表現なのでそれで良かろうよ。配偶者・夫・妻のような直接的語を避けて、あえて迂遠な表現をするのが敬語というものなので。

2017/02/10 17:24

 敬語とは遠ざけること、と言うと言い過ぎだが、重要な要素の一つではあるだろう。

色のついていないニュートラルな表現がほしいと思うのはもっともだ。けれどニュートラルというのにも色々あって、客観的な表現ならいいが直截的だと失礼な感じになってしまう。

「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」と言われるのは義理の父子になる関係を拒否しているからであり別の話だが、それでなくても「あなたの父親は~」というと若干無礼な感じはあり、普通はお父さんとかお父上とか敬語を使うだろう。別に父親が目上の人だから、というだけではない。「あなたの息子は~」というのものよほど公的な場でないと使わず、息子さんとかご子息とか言う。「あなたの息子」は下ネタっぽいというのは、まあ置いておこう。

他人の夫や妻に「あなたの夫or妻は~」という表現が使いづらいのも同じように、一対一の関係である夫と妻に踏み込んでしまっているように感じるからだろう。夫or妻という表現を使っていいのは公的な場を覗いては当人のみ、という意識がある。対象を敬語にすることで、「それが自分の身内では無い」という声明になるのだ。

で、ブコメには配偶者と呼ぶというのも多かったのだけれど、配偶者は法的な婚姻関係にあるものにしか使わないというのに加えて、やっぱり一対一の関係から離れられていないので、失礼な感じからは逃れられないんじゃないだろうか。

 

自分の妻を嫁さん・奥さん・相方・ツレなどと呼ぶのはよそよそしくて違和感がある、というような話題もたまに上がるが、それも直截的な関係を意味する表現に照れがあるから、自分との関係性を表す「妻」という語がさけられるのだろう。

あかんかったんや!ロリに和姦とかあかんかったんや!

エロ漫画の話をしよう(提案)。 

ロリ系雑誌で思うのは、なんであんなにレイプばっかなのか。 もっともロリ..

RINの後継のJuicyも和姦メインを標榜してるみたいで、LOとRINの棲み分けでそうなったような気も。結果的に残ったのはLOだから和姦の需要が少なかったのかもしれないが。

2016/12/08 12:01

 このブコメ書いた後に、

 これを知りましてね。

「ガハァ!」「血を吐いた!」

「やっぱり無理やったんや!ロリコンなんてみんなレイプ魔でラブラブ和姦なんて需要なかったんや!」

というのは冗談としても、前身のRINから続けて第1号から買い続けてた雑誌が終わるのはショックです。ブコメはあくまでもRINが終わったことについて書いたつもりでJuicy終了なんて知らなかったんですよ。ズリネタで綺麗事吐かすなと思われるかもしれませんが、どこぞのクリボーのごとく女の子が不幸すぎる話だと抜けないというナイーブな需要はそこそこあると思うのですよ。LOはレイプと、そこまで行かなくても悪い大人が子どもを騙くらかす感じの黒いマンガがまあ半分ぐらいなのに対して、Juicyは半分中学生カップルのラブラブエッチ。他の話も奥手な先生に女の子の側から仕掛けるのとか、おねショタ風味とか、ホーミングみたいに女の子が土下座する勢いの痴女みたいなのが中心で棲み分けしており、まあぶっちゃけマンネリ感はあったような気がしますが、エロ漫画なんてそんなもんだよ上等だろと思い、16号まで4年近く、不定期刊行でも毎号楽しみにして来たんですが、そうですか、無理でしたか。

いやー、嫌な予感はしてたんですよね。最初はほっけうるふのカラー絵が大きな目当ての一つだったのにカラーページがなくなり、後からできたJK専門誌のコミック高が定期刊行になったのにJuicyは不定期刊行のままで。好色少年にGirls forMに永遠娘と、茜新社属性ごとに雑誌作りすぎやろとは思っていましたが、最初に切られたのはJCでした。和姦じゃなくてJCがダメだった……とも思いたくないなあ。モバマス等、エロ以外でもそこら辺の年代のキャラが好きなので。

とりあえずは、Juicy連載陣の先生と編集者の皆々様の、ますますのご活躍とご健勝を、心より祈らせて頂きます。