流石に「エルフ/妖精」と「オナホ妖精」を別にしろとは言わない

前の記事ではDLsiteを褒めたのだが、DLsiteのタグには一つ大きな不満がある。「エルフ/妖精」というタグだ。このタグにはエルフのような人間サイズの妖精と手のひらサイズの妖精、いわゆる「オナホ妖精」がこの中に含まれてしまっていることだ。

検索するときにこの2つの属性を同時に表示したい人間がいるだろうか。いやいない。

などという話をして、理解はともかく共感してくれる人間がどれくらいるだろうか。

流石にオナホ妖精で単独のタグにしろと主張したいわけではない。だって「オナホ妖精」が「エルフ/妖精」の中で占める割合って体感1割ぐらいだもん。前の記事に「キリがねえよ!」というブコメがあったがその通りである。マイナーすぎるタグを増やすと不便だし、適切に管理されない。既にDLsiteのタグはかなり一覧性が悪いが、メロンブックスDLに至ってはタグ一覧のページがない。同人は商業に比べてマイナーな性癖でも供給される*1。そのため運営の方針次第では野放図にタグが増える。

ニコニコ動画やpixivのようにタグ編集をユーザーに開放するという手もあるが、まず間違いなく荒らしに使われる。金のやり取りがある場でそれはリスクが大きい。マイナー性癖を増やそうと思うといくらでも増やせるだろうが管理側が手動でタグを付ける上で、多すぎるタグは障害になる。

前の記事のブコメでは、「実妹・義妹」の区別は重要だという意見があった。しかし実のところ、俺個人の性癖としては、妹萌えなのだが血の繋がりは重視していない。不快に思う人は多いだおろう。申し訳ない。しかし俺は血縁主義者ではなく人文主義者である。つまり人間を人間たらしめるのは遺伝子ではなく他者との関係性と人間であろうとする精神だ、と信じているのと同様に、妹を妹たらしめるのは血縁ではなく兄を兄と呼び妹たらんとする精神だと信じている*2。また寝取り・寝取られの区別をちゃんとしてほしいというようなコメも あったが、この二つは男性主体で読むか女性主体で読むかという視点に因る部分も大きい。たとえば俺はひげなむち作品を寝取り側に感情移入して読んでいることも多いがDLsiteがつけているタグは寝取られのみである。

しかしまあ、黒と白の間にはグラデーションがあるとはいえ、明確な黒と白があるのもまた事実である。komifloはかつて姉と妹のタグを一緒にしていたが今は分けている。

 当時のキャプがないので傍証。ちなみにkomifloツイッター垢で新規作成タグの投票などもしている素晴らしい試みだと思う。DMMは実写も扱うため、そちらでは姉妹がマイナージャンルという都合もあるだろう。しかしエロマンガや同人界隈では姉と妹は一大ジャンルであり両者は決して交わることはない*3。どうですかDMMさん、いまからでも姉と妹タグを分離しませんか。現状エロマンガ配信のデファクトスタンダードにある地位を維持しようと思うなら、この措置は必要になると思うのですが。

*1:奴隷との生活なんてその極みだ。着せ替え脱衣ゲーがいくつあるんだと言いたくなるかもしれないが、あれも商業を含めたエロゲ全体だとニッチだからこそだ。

*2:いやまあ、実のところ萌えの原体験が月姫遠野秋葉(義妹)だからってだけだけど。

*3:というのはまあ控えめに言って大嘘であり姉妹丼も一大ジャンルではあるのだけれど、それには姉妹タグを別につけるか、姉と妹タグを両方つければいいのである

エロマンガのタグで姉と妹を一緒にするのをやめろ繰り返す姉と妹を一緒にするのをやめろ

  • komiflo 姉と妹が区別されている 80点

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  • DLsite 妹・義妹・実姉・義姉がそれぞれあり、なんか釣り合いが取れてない気がするが充実はしている 95点

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  • BookLive 妹・義妹、姉・義姉でそれぞれひとまとめ。アンチ義理過激派が怒りそう 75点

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  • DMM電子書籍 姉・妹で一緒にされている 0点

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妹モノが読みたいなと思ったときに姉で妥協するとかその逆が果たしてありえますか? 私はないと思います。


あ、一応フォローしとくとキンドル楽天やhontoはそもそもタグがないのでそれよりはマシかも。メロンブックスDLは商業はないけど、同人の場合姉・義姉・妹・義妹の他に姉妹タグもあった。

ビューアーも使いやすいし本当は全部DLsiteで買いたいんだが、DMMでしか買えない本が結構ある……。

「低能先生」

俺自身彼の人のことを低能先生と呼び忌み嫌っていたし、彼の人はそれに値する悪行を行っていたと思う。俺もidコールで低能呼ばわりされている。

しかし彼の人自身が低能先生と自称していたわけではないし、どうやら嫌がっていたらしい。宜なるかな。低能先生という呼び名には対話不可能な存在というレッテルとしての意味合いがあった。他の人はどうか知らんが、俺は「自説を声高に唱え、相手を啓蒙するという立場を崩さず、他人の意見を聞き入れない」ような人に対して〇〇先生と読んでいる。*1

犯行声明によると彼の人は議論を拒まれたことに不満を持っていたらしい。他人を罵倒しておいて何が拒まれただと多くの人は思うだろうし俺も思う。言葉の汚さと内容の価値は全く関係がない。自分が正しいという確信の上で、他人を汚い言葉で罵倒するのはそれはそれで自由だと俺は思う。激しい言葉のほうが優しい言葉より支持を集めることもある。ニセ科学批判界隈でもよく言われるが、目の前の一人を説得するのではなしに大衆に訴えるという戦略である。だが、自分から罵倒しておいて対話を拒まれたというのはただの逆恨みである。

俺は彼の人が言いたいことのコアの部分はなんとなく分かるし、実のところ共感する部分もある。嫌いだからいちいち解説したりしないが。

一方でHagex氏やその他ブックマカー諸氏のように「ダメなものにダメといって何が悪い」というような心性にも共感する。

どちらかといえば後者よりだが、俺はどっちつかずだった。イデオロギーというか性根というか、そういう観点では今もどっちもどっちだと思う。

だが彼の人の感情とやったことは、繰り返しになるがただの逆恨みである。進んで他人を罵倒するものが、対話を拒否されたなどと言って良い訳がない。俺はHagex氏のことも好きではないというかはっきり言って嫌いだったが、殺されることはなかった。それはおかしい。それは違う。道理が通らない。

*1:そうでない場合もある。普通に教師や作家にも使う

「つめる」には「言葉でおいつめる」という意味がもともとある

「詰る(なじる)」っていう字が読めなくて、「キツル、キツル」っていっ..

「詰める」って言葉

「詰める」の意味が変わってきてない?(例:上司に激詰めされる)

全部一人が書いたのかは分からないが、増田で「『つめる(詰める)』を問い詰めるという意味で使うのは『なじる(詰る)』との混同だ」と主張している人がいるようなので。

 

日本国語大辞典から引用

(2)身動きができないような状況に至らせる。

(ロ)対処できないような状況に追い込む。ゆきづまらせる。「問いつめる」「言いつめる」のように他の動詞と複合しても用いる。

米沢本沙石集「小禅師にてありし時も人をつめしが、当時も人をつむるやとぞ申されける」

 この沙石集(鎌倉時代本地垂迹的な仏教説話集)の用例がどういう状況かというと、以下のようなものだ。

少納言入道信西藤原通憲)の13回忌に親族や高僧が集まり、法会を開く事になった。その法会の総括役に信西の孫で高野山に隠遁している明遍僧都を呼ぼうとしたが、「遁世の身なので」といって出てこようとしない。親族たちは「遁世の身だからといって親の供養もしないのか。高名な坊主の言うこととは思えない」と文句を言ってもう一度使者を送った。

すると明遍は「別に俺だって親の供養はしたいよ。けどお前ら遁世を何だと思ってるの? 身内の葬式って言っても南北二京から有名な僧侶招いてるじゃん。そんなところに出ていって講師役を勤めたら、朝廷や他の貴族に呼び出されたときに断れないだろ。けどまあ親不孝になりたいわけじゃないから代役は送ってやるよ」と言って弟子を寄越した。

親族たちはこの返事を聞いて「小禅師にてありし時も人をつめしが、当時も人をつむるや」(小禅師だった時も他人をやり込めていたが、今もそうなのだなあ)と言った。

 つまり言葉を持って人をやり込めることを「つめる」と言うのは、鎌倉時代からある用法なのだ。「いっぱいにする」「身動きが取れなくなる(自動詞つむ)」というような意味でより古い用例があるため、本来の意味とまでは言えないだろうが、「問い詰める」の意味も古い用法なのだ。

現代では一般的でない、時代がかった使い方かもしれないが、別に「なじる」との混同だとあえて推定する必要はないだろう。

 

2018.03.29追記

いやあ、今日も追い詰めました。 使われているね、うん。使われている。 ど..

しばらくみなかったがまだ増田に生息しているらしい。

藤田弘夫「都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか」

 

都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか (中公新書)
 

都市の権力は自由にする

以下個人的な要約。

 古今東西、国が飢餓状態になったときは、まず食料を生産しているはずの農村から飢える。富山の米騒動ウクライナの飢餓輸出、アイルランドのジャガイモ飢饉の時、東京やモスクワやロンドンは、少なくとも相対的には飢えていなかった。

何故か。都市に権力があるのに対して、農村には無いからだ。ある農村が飢えたとしても、都市はその政治的、経済的な権力を用いて別の農村から、あるいは国外からも食料を調達し、蓄積することが出来る。それに対して農村には、都市から食料を持ってくるような力はない。

都市が飢える状況というのはただ一つ。戦争に負けて既存の権力が崩壊した時だ。日本ならば戦後すぐの時代、都市の住民が農村まで直接出向いて、物々交換で米を手に入れていたという。通貨が信用を失い、強制的な徴税・徴発も出来なくなったとき、食料を農村から都市に動かす力が無くなるのである。

 

 都市と権力は一体である。権力は都市に住む人々の生活を安全・経済・宗教・教育・医療・文化・情報など様々な形で保障し、その住民の支持を得ることで存続する。生活の保障のためには様々な施設と資源が必要になるため、必要な者は周辺の農村から集められる。農村から都市に移される食料は、農村の自給自足分を超えた〈絶対的余剰〉ではない。都市は都市が必要な分だけを〈社会的余剰〉として調達・備蓄する。

人間が集住すると土地の不足や伝染病の発生など、様々な不自由が生じる。にもかかわらず人間が集住し都市が生まれるのは、都市無くして権力無く、権力無くして長期的な生活保障はできないからである。逆に権力が様々な資源を、特に生存の為に最も必要な食料を都市に用意できないことは、権力の正統性そのものを揺るがしてしまう。

 

現代ではグローバリズムナショナリズムの進展の中で、先進国全体が都市に、途上国全体が農村になっている。先進国の中の農村には膨大な補助金が投入される。途上国では首都などごく一部の都市にのみ資源が集められる。社会主義国の計画的な経済の中では都市と農村は厳格に峻別され、資本主義国よりも都市と農村の格差が大きくなってしまうことさえある。

 

というような本だが、非常に面白かった。

現代においても権力の中心に食があるというのは常々思っていたことである。同じ飯を食らうことが同胞意識を育てる。普段進歩的なことを言っている人間でも、食の話になればとたんに保守的になるのはよくあることだ。

「足りないと言ってもあるところにはある」というのはよくあるが、江戸時代の飢饉でも江戸に押し寄せた農民に米が配られた。彼らが農村にとどまっても座して死ぬだけだっただろう。農村が一つや二つ潰れたところで藩も幕府も対応しない。例外的に対応すれば(そして成功すれば)、義民伝説や名君として美談になり、後世まで語り継がれる。しかし首都で飢えた民が溢れれば、伝染病の発生・治安悪化・暴動への恐れからお上も対応しないわけにはいかないわけだ。

アラブの春でも、首都の住民が政権に反旗を翻せば、例え非武装に近いデモでも政権が倒れる場合があった。一方シリアでは、湾岸諸都市や首都ダマスカスを何とか維持したアサド政権が、長く続いた内戦を制しつつある。都市住民の強固な支持があれば、地方を失っても権力はかなりの間持ちこたえられる証拠だろう。

先進国内部でも、NIMBY施設に都市と権力の論理は見られるだろう。核施設や軍事基地が地方に多く都市に少ないのは、地理的な理由だけではない。そこで生み出されるエネルギーや安全などの資源を都市が享受するためだろう。

本書は後書きで著者本人が書いているように、新書らしく一般向けの平易な文章で非常に読みやすい。理論先行でデータが少ないように見えるので、そこら辺は前著「都市と権力」を読めということなのだろう。

欲望の逆張り

この増田(厄年なのに据え膳がマブい)も肯定的な反応が欲しいならこっちの増田(「手、冷たいですね」ってやめろよ!)ぐらい無邪気に書いとけば良かったのに。

欲望が透けて見えると逆張りされるのが古き良きインターネッツだよなあ。

 

「前」とは見えている範囲

 

前後ぉ/////

時が前に進むと誰が決めたんだ→確かに1日前には進まない

2017/03/17 01:37

日本語の「まえ」は本来「目方」と漢字をあて、「尻方(しりえ)」と対になる言葉である。つまり「まえ」の中心的な意味は「自分の見ている方向」あたりになるのだろう。未来は見えないが過去は自分が見てきた範囲である。それ故時間については進行方向後ろが「まえ」になる、という風に理解しておく。