藤田弘夫「都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか」
都市の権力は自由にする
以下個人的な要約。
古今東西、国が飢餓状態になったときは、まず食料を生産しているはずの農村から飢える。富山の米騒動、ウクライナの飢餓輸出、アイルランドのジャガイモ飢饉の時、東京やモスクワやロンドンは、少なくとも相対的には飢えていなかった。
何故か。都市に権力があるのに対して、農村には無いからだ。ある農村が飢えたとしても、都市はその政治的、経済的な権力を用いて別の農村から、あるいは国外からも食料を調達し、蓄積することが出来る。それに対して農村には、都市から食料を持ってくるような力はない。
都市が飢える状況というのはただ一つ。戦争に負けて既存の権力が崩壊した時だ。日本ならば戦後すぐの時代、都市の住民が農村まで直接出向いて、物々交換で米を手に入れていたという。通貨が信用を失い、強制的な徴税・徴発も出来なくなったとき、食料を農村から都市に動かす力が無くなるのである。
都市と権力は一体である。権力は都市に住む人々の生活を安全・経済・宗教・教育・医療・文化・情報など様々な形で保障し、その住民の支持を得ることで存続する。生活の保障のためには様々な施設と資源が必要になるため、必要な者は周辺の農村から集められる。農村から都市に移される食料は、農村の自給自足分を超えた〈絶対的余剰〉ではない。都市は都市が必要な分だけを〈社会的余剰〉として調達・備蓄する。
人間が集住すると土地の不足や伝染病の発生など、様々な不自由が生じる。にもかかわらず人間が集住し都市が生まれるのは、都市無くして権力無く、権力無くして長期的な生活保障はできないからである。逆に権力が様々な資源を、特に生存の為に最も必要な食料を都市に用意できないことは、権力の正統性そのものを揺るがしてしまう。
現代ではグローバリズムとナショナリズムの進展の中で、先進国全体が都市に、途上国全体が農村になっている。先進国の中の農村には膨大な補助金が投入される。途上国では首都などごく一部の都市にのみ資源が集められる。社会主義国の計画的な経済の中では都市と農村は厳格に峻別され、資本主義国よりも都市と農村の格差が大きくなってしまうことさえある。
というような本だが、非常に面白かった。
現代においても権力の中心に食があるというのは常々思っていたことである。同じ飯を食らうことが同胞意識を育てる。普段進歩的なことを言っている人間でも、食の話になればとたんに保守的になるのはよくあることだ。
「足りないと言ってもあるところにはある」というのはよくあるが、江戸時代の飢饉でも江戸に押し寄せた農民に米が配られた。彼らが農村にとどまっても座して死ぬだけだっただろう。農村が一つや二つ潰れたところで藩も幕府も対応しない。例外的に対応すれば(そして成功すれば)、義民伝説や名君として美談になり、後世まで語り継がれる。しかし首都で飢えた民が溢れれば、伝染病の発生・治安悪化・暴動への恐れからお上も対応しないわけにはいかないわけだ。
アラブの春でも、首都の住民が政権に反旗を翻せば、例え非武装に近いデモでも政権が倒れる場合があった。一方シリアでは、湾岸諸都市や首都ダマスカスを何とか維持したアサド政権が、長く続いた内戦を制しつつある。都市住民の強固な支持があれば、地方を失っても権力はかなりの間持ちこたえられる証拠だろう。
先進国内部でも、NIMBY施設に都市と権力の論理は見られるだろう。核施設や軍事基地が地方に多く都市に少ないのは、地理的な理由だけではない。そこで生み出されるエネルギーや安全などの資源を都市が享受するためだろう。
本書は後書きで著者本人が書いているように、新書らしく一般向けの平易な文章で非常に読みやすい。理論先行でデータが少ないように見えるので、そこら辺は前著「都市と権力」を読めということなのだろう。