山室信一「キメラ―満洲国の肖像 増補版」 駆り立てるのは理想と欲望、横たわるのは犬と龍

 

著者山室は、満洲国建国前夜の情勢をゴルディアスの結び目に例える。日本軍は中国北東部の軍閥指導者、張作霖を爆殺するも、息子の張学良は日本軍の陰謀を察知し、権力の早急な掌握に成功。蒋介石に帰順を表明し政治的に安定した事と、折からの漢民族ナショナリズムの高まりにより、反日運動が活発化する。人口と漢民族資本の流入により日系人は徐々に不利な立場に立たされ、日清・日露戦争で血を流しつつ得た権益を失ってなるものかと戦々恐々だった。

また、朝鮮総督府農地改革で耕す土地を失った朝鮮系の農民が満州に流入していた。金日成満州抗日パルチザンを組織していたように、共産主義者や民族主義者の根拠地となる一方、日本に因る侵略の尖兵と見なされ、漢民族とは度々対立していた。元々この地に住む蒙古系・満州系住民の中でもナショナリズムが高まり、増えつつある漢民族に対抗する必要性を感じていた。

五族協和」のスローガンは、人口では圧倒的に多数である漢系を抑え、朝鮮・蒙古・満州系の指示を得るためのものでもあった。

この複雑に絡まった結び目を断ち切り、新しい国家をつくり上げるダモクレスの剣となったのが関東軍である。1931年に満州事変を引き起こす。当初張学良や蒋介石は中国側の反撃を期待した挑発行動とみなしたため、大きな抵抗もなく全土を征服。かくして満洲国は誕生する。

確かに民族主義が争いを生むというのは一面の真実であったかもしれないし、国民党は自ら掲げる三民主義を実行しているとは言いがたく、軍閥は民衆の生活を脅かしていたのだろう。軍閥を排除し治安を日本軍に任せて民生を安んずる「保境安民」を掲げた于沖漢、日漢平等を信じ民衆自治の成立を夢見た橘樸、王道楽土の建設を目指した現地日系人による満州青年連盟、仏教系政治団体の大雄峯会の面々などは、少なくとも本人の心のなかでは、誠実に満州国建国に関わっていただろう。しかし、そのような人々が、権力の中枢に携わることはなかった。

満洲国には法的に定めのあった国会が最後まで開設されなかった。石原莞爾は国民党や共産党を範にとった一党独裁を目指したが実現しなかった。そのため満洲国は極端な官僚主導国家であり、人口の3%に満たない日系人が官僚の半分以上を占め、しかも主要なポストを独占していた。さらにその多くは本土の省庁から派遣された腰掛けの人員であり、建国の理念に殉じるといった精神からは程遠かった。結局は凡庸で無難な傀儡国家にならざるをえなかったのである。

邪推

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

  • 2013年6月、ヤフー知恵袋で「大阪在住だが、自分の学力に合う理学部物理学科のある大学が奈良女子大しかないが、違憲ではないか」という質問が投稿される。

回答で、「京大阪大は無理でも周辺にそれなりの理学部はあるので世間の理解は得られないのではないか。管理栄養士を目指している福岡県在住の男性が県立の福岡女子大を受験できないのは不当だとして訴えるなら世論を巻き込むことができるかもしれないが」というアドバイスが寄せられている。

こういう回答ができる回答者も凄いが、他の回答から察するに、大学・お受験分野のマニアなのだろう。

www.huffingtonpost.jp

  • 2014年11月、栄養士を目指す福岡県の男性が、福岡女子大食・健康学科の願書が拒否されたのは違憲だとして訴えを起こす。

digital.asahi.com

  • 2015年9月、「争点に関係のないことの立証を裁判官に求められたため」という理由で、男性が訴えを取り下げる。

以下邪推

 もしも知恵袋の質問者が回答を参考にして訴えを起こしたのだとしたら?

質問では「私は大阪在住です」と書かれているが、報道では「福岡県の男性」となっている。知恵袋での自己申告が正しいという証拠は別にないが、この質問は本筋と関係がないディティールが細かく、飛躍がありつつも理解できる範囲で思考のつながりも示されているので、ある程度の信憑性がありそうだ。おそらくは訴えを起こす前に住民票は移したのだろう。

とすると、「争点に関係のないことの立証」というのは福岡県内での居住実態についてではないか。(本当に栄養士になりたいのかという意思、という方向も考えたが、裁判で立証を求められるような類いのものかは怪しいかも知れない。質問には「和歌山大を受験して落ちた」とあるので、その辺の事実が裁判で示されたのなら、こっちの線もあるかも知れないが)

質問には「一人暮らしは出来ない」とあるので実際の生活は大阪のままにしていたということは十分考えられる。(もっとも、これは大阪周辺の大学しか受験できない理由なので本当かどうかは怪しいが)

質問ではそもそも学力に合う物理学科を探していたのに、補足では完全に男子入学禁止を「論点」にしている。この質問者ならば裁判所から居住実態の証明を求められたならば、「争点に関係のないこと」と捉えるだろう。

論難するようなことを書いたが、国公立大が栄養士などの国家資格取得のためのコースを、女性にしか開放していないというのは確かに差別的であるとは思う。特に栄養士のような既に女性が大半を占めている(平成26年栄養士の給料&年収分析-年収ラボ)分野においては。もちろん、栄養士資格の習得を目指す女性が多い、という需給の理屈はあるんだろうけどね。

むしろ理系などの女性が少ない分野に、アファーマティブアクションや国家戦略として女子大を置くとした方が、理にかなってるんじゃねえかな。

ツナミノユウ「つまさきおとしと私」

 

つまさきおとしと私 (KCx)

つまさきおとしと私 (KCx)

 

 最初から読めば咲ちゃんがどの時点からおかしくなったのか分かるかと思ったのだが、2話の時点で既に異常者だった。2話の時点の妖怪しゃがみ女だった。ナチュラルボーン異端がたまたまとし君と出会ったことによって赫奕と輝きだしたのだろう。

それでもターニングポイントがあるとしたら、13話でプレゼントされた背負いかごについて、14話でとし君がお礼を言ってしまった辺だろう。「妖怪」と「観察者」(2話)から踏み越えた、双方向の関係性が生まれてしまった。というか、逆転してしまった。お話的にもこれ以降、とし君がターゲットを見つける前から咲ちゃんが行動を起こしている気がする。

その前の12話でとし君がレゾンデートルで悩んでいるのだが、妖怪って大体単機能だから存在理由で悩んだりしないよね。妖怪天井なめは、天井のシミから逆算された天井を舐めるだけの存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。とし君といる時の咲ちゃんの傍若無人ぶりと、私生活ではおそらく空気のように存在感がなさそうな感じはまさに妖怪である。

あと咲ちゃんは目が怖い。まず表紙にもなってる普段の3重同心円型ぐるぐる目が大概怖い。この作者は他のキャラもぐるぐる目で描くことが多いみたいだが、咲ちゃんの感情の変化によって同心円の数が増えるので、単に一般的な目としてぐるぐる目を使ってるわけでもなさそうである。

そんなことを考えながら読み進めていると、本の後ろのほうでは明らかに同心円の密度が増えている。怖い。瞳孔が開ききって真っ黒になったり、逆に白くなったりかすれて目がハートになったりもするのだが、どれも怖い。

けど単行本描き下ろしの目を閉じて笑ってる時は超絶美少女(21話と22話の間)なので、みんな単行本を買おう。タイトルのどこにも①とか付いてないから、続きが出るかどうかは多分マジで売れ行き次第だぞ!

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を見てきた

この映画の登場人物たちは、みんな激しい怒りで頭がプッツンしている。ふがいない自分、憎き敵、理不尽な世界への怒りで身を燃やし、荒野を疾走する。そして燃え尽きるように次々死んでいく。

印象的だったのは最後にフュリアスとマックスが見つめ合うシーンだった。フュリアスは復讐を果たし、妻たちを含め虐げられた人々を解放したが、その顔は決して笑っておらず、晴れ晴れともしていない。思えば、彼女が本当に求めていた「緑の地」はもはや戻ってくることはない。砦を去り、一人荒野に戻ろうとするマックスは「救えなかった人々」の幻影に苦しめられ、自分を責めている。決して癒やされることのない怒りに身を焼かれているもの同士の繋がりが、二人にはあったのだろう。

 

あと初めて4DXのスクリーンで見たんですが、かなり没入感があって面白かったです。匂いはよく分からなかったし、煙はちょっとスクリーンが隠れて邪魔かなとも思ったんですが、耳の横を銃弾が通る感覚とかは、かなりヒヤヒヤしました。席の揺れ、振動は、ほぼ全編カーチェイスの映画でしたが、ほとんど違和感なく一体感があって関心しました。そういう激しいアクションシーン以外にも、上で挙げたフュリアスとマックスが見つめ合うシーンで席が斜めになり、両者の高低差・距離感を感じさせる演出とかも面白かったです。

やっぱり日本の中心にある国家神道と、それ以外の諸々の宗教と 「宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学」塚田穂高

 

宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学

宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学

 

 日本において政治進出に成功した宗教団体というのは、今のところ創価学会公明党ぐらいしか無い。オウム真理教真理党など政治進出を目指した宗教団体は多いが、泡沫政党として消えていった。幸福の科学幸福実現党は地方議会で当選者を出しているようだが、国会での当選には比例区でも程遠い状況だ。

宗教団体の政治への関与には、別の極もある。日本会議には国家神道神道政治連盟以外にも様々な宗教団体が参加しており、独自候補を立てずに主に自民党保守系議員を支援している。その中には神社本庁天台宗といった大組織以外にも、戦前なら異端として弾圧されていたであろう教義を持つような小規模組織も含まれている。noiehoie氏のこのへん(日本会議に集まる宗教団体の面々――シリーズ【草の根保守の蠢動 第3回】 | ハーバービジネスオンライン)とか参照。

宗教団体が政治に関わるとき、この二つの方法があるわけだが、各団体がどちらの道を選ぶかについて、どのような要素がそれを決定しているのだろうか。本書では、「正統ー異端性」と「ナショナリズム」という属性から、様々な宗教団体を分析している。

宗教ナショナリズム

世の中には様々な宗教団体があるが、単に規模が大きければ積極的に政治参加するというわけではない。本書が取り上げている団体の中では、生長の家のように政治関与を打ち切った団体もあれば、浄霊医療普及会=世界浄霊会のように当選の可能性がほぼないことを承知のうえで複数回国政選挙に出馬した団体もある。

では、何が政治参加を分けるかというと「ナショナリズム」である。本書の「ナショナリズム」は民族主義国家主義ではなく、国家観に近い概念だ。現在の日本国や日本社会がどのようなもので、あるべき社会(ユートピア)はどのようなものか、という明確なビジョンがなければ、政治力を持っても達成すべき目標がない。単に政治と結びついて便宜を得るというだけでなく、積極的に政治的主張を発信し、選挙などの活動に関わるかどうかには、ナショナリズムが重要だというわけだ。現代社会に対する危機感や、達成すべき明確な目標を持っていれば、見込みが少なくとも色々と理由をつけて政治に関与していく。

「宗教は個人の心の問題」とする「こころ教」(「こころ教」と「原理主義」の時代が来る?:日経ビジネスオンライン)という現象があるそうだが、逆に言えばそのようなスピリチュアルな団体なら、どれだけ規模を持っても積極的な政治参加は行わないだろう。

本書は①文化・伝統観、②天皇観、③対人類観、④経済的優位観、⑤戦前・大戦観、⑥欧米・西洋観、⑦ユートピア観の7つの指標から、各団体のナショナリズムを分析している。このナショナリズムの性質は、次の「正統」との関係にも関わってくる。

正統、O異端、H異端

日本の精神世界、宗教界における「正統」とは、現在においても国家神道天皇崇拝である。そこからどれだけ距離を取るか、あるいは反天皇かという振れ幅はあっても、他に大きな求心力を持つ軸は存在しない。だから異端性を持つ宗派であっても、この軸さえ保っていれば大同団結でき、日本会議自民党を通して政治に関与することができる。逆に言えば、この軸を持たない宗派は日本会議に参画できず、その異端性のために他の勢力とも団結できない。政治参加を望むのであれば、独自に政党を作り、独自候補を立てるという手法を採ることになる。

本書では安丸良夫の理論を援用し、この「正統」と、正統の一部をその権威の拠り所としている「O(オーソドキシィ)異端」、天皇制的正統とは全く異なる思想的軸を持つ「H(ヘテロジーニアス)異端」の3つの分類を使う。

日本会議に参加するO異端的な宗教を挙げると、解脱会国家神道の在家講的存在である。手かざしで有名な真光系の崇教真光は、かなり積極的に現代医療を否定し、竹内文書の世界観を取り入れているなど異端的傾向が強いが、天皇は特別な存在として認め、日本中心主義、精神主義的な教義を持っている。

対してH異端的な宗教を見ると、創価学会は言うまでもなく日蓮宗系であり、政治進出のそもそもの目的は、日蓮の遺言である国立戒壇の設置であった。2代目会長戸田城聖は国教化が目的ではないとはしていたものの、天皇の法華教帰依を布教や国立戒壇設置の近道と考えていた。過去仏門に帰依した天皇上皇も多かったことを考えれば不可能ではないかもしれないが、明治以降の国家神道とは根本の部分で思想を異にするのは確かだろう。現在の創価学会は他の多くの日蓮宗系の諸派と同じく、(少なくとも国家施設としての)国立戒壇を設置するという目的は持っていないようだが。

幸福の科学幸福実現党も、政治的な主張は一見保守的だが、大川隆法への個人崇拝が根本である。霊言などでの扱いを見ても、天皇神道が世界観の中心にいないことは間違いない。

 

とまあ真面目な本なんですが、新興宗教に対する雑学的な興味で読んでも面白かったですよ。オウムと幸福の科学の、政治への期待と挫折については並べてみるといろいろと興味深いし、アイスター和豊帯の会女性党の実態については本書を読むまで全く知らなかった。「これからの時代は女性が作る」とかパプテマス・シロッコみたいなこと言ってる実業家がいるんすね。

スプラトゥーンのどこが面白いのかという個人的な話。

ウデマエがB-から上がらないんですけおおおおおおおおお

あ、フェスではなんかしらんけどホットブラスターぶっ放してるだけで結構勝てました。わかばや銀モデラーで色塗りに集中している人が多いみたいなので、中距離で戦うのがいいのかもしれませんね。チョーシが10超えたの初めてです。すぐに7ぐらいまで下がりましたけど。バリア張ったわかば相手に真正面から弾を当て続けて倒した時が一番楽しかったです。

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さて、スプラトゥーンを今のところはすごく楽しめているのですが、個人的にどういうところが楽しいのか考えてみたいと思います。

弾の当たり外れの納得感

 いままでやってきたシューター系のゲームを振り返ってみる。CoD:Gはなんかキャンペーンモードがさっぱり面白くなかったのでそこで諦めた。BF4はそこそこ続けたんだけど、イマイチハマりきれない感があった。何が楽しくなかったのかというと、弾の当たり外れに納得感がないのが理由だったのではないかと思う。弾を撃ってるとなんかよく分からん間に殺したり殺されたりする。単にお前のエイムが下手なだけだと言われればその通りなのだが、まあとにかく死ねばイライラするだけで、殺しても満足感がなかったんである。

その点タイタンフォールは良かった。スマートピストルは敵に数秒標準を合わせ、3回ロックオンして引き金を引けば確実に敵を倒せる。的を合わせて引き金を引けば敵が倒れる。実に分かりやすい。昔のえらい人は銃は殺人の罪悪感を軽減させるって言ったらしいが、満足感も軽減させるんだろう。

ボーダーブレイクも結構やっていたんだけど、重火力武装で炸薬砲・チャージカノン・榴弾砲に爆発範囲拡大チップを付けるという頭の悪いカスタムばっかり使っていた。豆鉄砲と違って爆発物はあたった範囲が見えるので楽しい。

スプラトゥーンは撃った弾がどこに着弾したのかすぐに分かる。トリガー押しっぱなしで問題ない武器が多いので、撃ちながら修正すれば良い。敵を倒せば派手にインクが飛び散る上に、それによって生まれるアドバンテージも分かりやすい。自分が死ぬときもそれ以前に機動力を奪われたことを感じることが多いし、上手くやればかわせたと感じることも多い。自陣にさえいれば機動力は高いしインクに潜ることもできるので、突出したり背後を取られたりしなければ、射程で負けていてもそうそう一方的にやられることはない。一度逃げて後ろで自陣を固めててもポイントになるし、前線で生き残っていれば、大抵誰か味方がやってきてくれるもんである。プレイしてて楽しいし、もっと改善できることが直感的にわかるのでもっとやりたくなる。

ただ動きまわるのが楽しい

シューター系ゲームはどうにも移動が面白く無い。どこにいるのか分からんスナイパーを気にしながらチンタラ地べたを這いずりまわるわけだが、なんというか、緊張感を維持したまま作業としては単純なことをするというのが性に合わないのだと思う。タイタンフォールが面白かったのも、パルクールアクションがあるために移動の自由度が高く、ただの旗の間を動くだけでも色々と考える余地があり、単純な操作で視覚的な面白さがあったからだと思う。

スプラトゥーンも同じように、動きまわるのが楽しい。地面や壁をインクで塗ることで機動力を上げ、隠れながら進めるのだが、武器ごとにインクを塗れる範囲が異なるので、操作キャラの性能が全く一緒でも、武器によって動かし方が異なる、というのはよいアクセントになっていると感じる。

 

了解と承知はどちらが丁寧か? 北原保雄VS中村明

賢明なるはてなー諸兄なら、承知と了解のどちらが敬意を含んだ表現かという問題があることはご存じだろう。

「了解」は失礼か? - アスペ日記

失礼以前に「了解」と「承知」は意味が違うじゃん? - 最終防衛ライン3

最初に個人的な使い分けを書いておくと、僕は会社の上司など「身内」の人間からの依頼には「了解」を、顧客など「外部」の人間からの依頼には「承知」を使う。

「了解」には依頼内容の背景や相手の事情を理解した上で、自分の事として引き受けるという意味合いがある(と僕は思っている)。同じ社内の人間であればある程度の事情は知っており、責任や目的などを共有すべきなので、(実際がどうかにはかかわらず)「了解」を使う。顧客など外部の人間とはそこまでの一体感がなく、また安易に示すべきでも無いと思うので、単に依頼内容を把握して引き受けた、という意味合いで「承知」を使う。外部の人間でも、ある程度やりとりを繰り返して関係を構築した後なら、「了解」を使うかもしれない。

あと、「承知」という言葉を相手に使われた場合、「お前の言うことは分かったけど、それについてこちらがどうするかはこれから検討するよ」という意味合いを感じるのに対し、「了解」の場合はすぐに実効してくれるのだろうなと感じる。

もちろんこういう感覚を共有していたとしても、「お前ごとき下っ端がこちらの事情を理解しているなどおこがましい」という反応をする上司もいるかもしれないが、それはまあ知ったこっちゃない。

 

さて、了解が失礼だという認識が広がった大きな理由の一つには、おそらく「明鏡国語辞典」がある。この辞書は言葉の使い分けについての記述が多い(そしてその基準が個人的にはあまり同意できないことが多い)のが特徴の辞書なのだが、「了解」の項の<表現>に以下のようにある。

近年目上の人の依頼・希望・命令などを承諾する意に使う向きもあるが、慣用になじまない(ぶっきらぼうで敬意が不足)。「分かりました」「承知しました」のほか、「承りました」「かしこまりました」などを使いたい。

明鏡国語辞典の編集者として有名な北原保雄が筆頭編著者になっている「問題な日本語 その4」のコラムにも以下のようにある。

上司に「報告書を至急上げてくれ」と言われ、「了解しました」と答えるのは、言葉の誤用ではない。しかし、部下などの目下の人にこう返事されると、失礼だと感じる人が少なくないようだ。「了解した」は、理解した、理解して承認した、という意味。「了解しました」はそれに「ます」を続けて丁寧な言葉遣いにしているのだが、意味としては変わらない。相手によっては、偉そうな言い方だと思われてしまう。 

しかし、ほぼ逆の語釈をしている辞書もある。

中村明著「日本語 語感の辞典」の「了解」の項には

理解した上で納得する意で、やや改まった会話や文章に用いられる漢語。(中略)結果に重点を置く「了承」に比べ、趣旨を十分に理解するという過程が前提になる。 

 「承知」の項には

知っている 、要求などを聞き入れる意で、会話でも文章でも広く使われる日常の漢語。(中略)「承諾」とは違って、認めるところまで言及せず単に知っている。段階までをさす用法もある。そのため、同じ意味で使っても、「承諾」より軽い感じになりやすい。

とある。中村が監修している大辞泉の「了解」の項にも<用法>の欄で同じような解説が書かれている。

この語釈はほぼ僕の感覚と一致する。「承知しております」といった場合の「承知」には「知っている」という意味しかないこともあって「承諾する」という意味で「承知する」を使うには心理的な抵抗がある、というのは辞書を繰る中で気付かされたことだった。「現代国語例解」の「了解」の項にも以下のようにある・

「了承」が相手の示した案などを認める手続き上の行為とされるのに対し、「了解」は内心で理解し、認めるような場合にもいう。

「了承」は手続き上の行為とあるが、僕は「承知」にも同じような意味合いを感じている。

他に僕の感覚に近いものとして、「類語活用辞典」の「了解」の項に

<承知>は、あいての願いや希望、要求などを認めたうえで、自分のこととして引き受けるという点に意味の重点があるが、<了解>は、そのことの事情や理由などがよく分かって、認めるという点に意味の重点がある。

とあった。ちょっと意味が取りづらいのだが、「承知」は引き受けること、「了解」は理解していることに意味の重点があるということだろうか。

今回の件から我々が得るべき教訓は……、辞書を引く時には複数のものをあたり、話半分に受け入れて、自分に都合のいいものを使え、ということだろうか。

 

以下蛇足だが、興味深いものとして、「新明解国語辞典」の「承知」の<運用>には

「承知していない」の形で、正規の手順を経て伝えられていないから話題として取り上げる価値がない、という気持を表すことがある。

「了解」の<運用>には

相手からの指示・命令に対して納得したことを表す返事として用いられることがある。

とあった。