今上帝の勝利

ラジオクラウドでSession22の元号論を聞いていてどうにも違和感があった。改元に当たって政府と首相が面に出ていることを批判していたのだが、事の本質はそうではないのではないか、と思う。改元のそもそものきっかけは、今上帝の退位である。機を見るに敏とばかりに安倍首相が自らの権威強化に乗り出しているのは間違いないだろうが、多くの国民の念頭にあるのは首相の顔ではなく、後1カ月で代替わりする今上帝と東宮だろう。現皇室と現首相に微妙な距離感があることなど、ノンポリの多くの国民も察しているのではないか。

天皇とは日本国家の平穏繁栄を祈るものであり、それによって目に見える現世利益があるとは言わずとも、一市民もそこに感情移入することによって祈りに加わるという宗教の本質的な構造がそこに成立しており、それがポジティブなものであると受け入れられている。だからこそ天皇による時の支配の象徴である改元も、意識的無意識的に天皇制の永続を望む民衆が、無批判に喜んでいる。古代の天皇は譲位によって自らの権力系統を確定させたが、今上帝は譲位によってこの宗教を完成させた。今上帝の勝利である。

世界的に世俗主義の退潮と、権威主義・宗教勢力の台頭が見られる。多くの人々にとって、世俗主義とは冷戦構造の建前に嫌々付き合っていたに過ぎないものであり、その崩壊と共に世俗主義が力を失うのも当然なのかもしれない。改元を違和感なく日本社会が受け入れているのも、その一貫なのではないかと思えてならない。

そういう世の中で、無神論者の俺は、戦後の天皇制というやわらかい宗教を、どう受け止めればいいのだろうか。どうも無神論という宗教は、ミームとしての強度がそれほど高くないらしい。敗北主義的ではあるが、無神論にも世俗主義にも期待できないとなると、イスラム国家におけるジンミーのような、二律背反的な思いがあるのだ。