表現の自由の「仕方のない犠牲」

 秋葉原は最低だ。女性が声をあげなければ「男さえ気持ちがよければいい社会」が続いていく - Togetterまとめ

ゾーニングには反対なので、女性的な欲望をもっとおおっぴらにする方向に持っていきたい。

2015/04/06 16:29

 前も書いたけど露出度高いとかセックスアピールがキツイ絵はあんまり好きじゃないし、少なくとも性欲高まってないときに見るとちょっと嫌な気分になるんですよ。秋葉原とはいえ街中でエロい絵を見たいとは全然思わない。

type-100.hatenablog.com

 けど俺の個人的な趣味嗜好を抜きにして、何が正義か、何が理想的な社会というのを考えると、やっぱりあらゆる人間が表現したいものを自由に表現できる、見たいものを自由に見られることが理想だろうとしか思えない。そして言いたくないけどあえて露悪的なことを言うけど、その 仕方のない犠牲コラテラル・ダメージ として、表現によって傷つく人間がいても甘受されるべきだと思うのです。

そもそも表現の自由を含め、全ての自由権は他人の利益を侵害することへの免罪符としての性質を持つのではないか。みんなが各々好きなことをすれば、他人の行動によって損をしたり不快になったりして対立が生じる。その時社会は対立する二者のどちらを立たせるのか、というのが法によって権利を規定する意義であり、国や社会ごとに法が異なる理由だと思います。

で、俺が理想とする社会は、どんなに無価値でも、下劣でも、間違ったものでも、とりあえず表現する時点では排除しない、というものです。美醜とか善悪とか正誤とかいった判断は絶対的なものではない。だから個々人が己の考えていることを多くの人の目に晒し、世に問う機会を奪ってはいけない。対抗する意見を持つものも自由に発言し、両者の綱引きの中で社会的な合意が生まれ、どこかに線が引かれて落ち着く、というのが理想です。もしくは落ち着かずに延々と争いが繰り広げられたとしても、なあなあにされたまま、誰かが言いたいことを言えずに抑圧されたままでいるよりは良いことだ、と思うのです。

で、表現の自由の中には、表現の範囲や方法も含まれるがゆえに、見たくないものを見なくてすむ自由というのは、「時計じかけのオレンジ」的に顔面を固定して映像を見せられるのを拒否する、みたいな身体の自由に関する場合しか認められない。ゾーニングを流通・販売が自主的にやるのではなく、他者が押し付けるのも賛成できない。

もちろんこれは空想的で暴力的な理想論です。俺が他者の表現によって深刻に傷ついたことがない(例えばレイプ被害者が性表現を見た時にトラウマが蘇るような)というのもある。デマやヘイトスピーチなど具体的な被害が生じる場合にどう対処すべきかの答えを持っているわけでもない。世の中義理があれば人情もあり、俺自身の中にも傷つく人について、正義だからといって目を瞑っていいわけがないという思いもあります。

さらに言えば、こういう俺の正義は、多数決を取ればきっと負けてしまう類のものでしょう。表現の自由を第一に置くような価値観をしている人間は、多分どこにいっても少ない。多数派と折り合いをつけてなるたけ表現の自由を維持・拡大するためには、本当はこういうことをおおっぴらに書かないほうが多分良い。けどやっぱり、俺が正しいと思うのはこっちだという、グダグダとした情動があるのです。

「唐突」と「突然」

「唐突」と「突然」という熟語がある。どちらもおおむね「いきなり」という意味の言葉だが、使われ方には少し差がある。

「唐突」はいわゆる形容動詞 - Wikipediaだ。終止形なら口語は「だ」、文語は「なり」が後について使われる。「突然」も形容動詞だが、個人的な感覚かも知れないが、「だ・なり」を付けて使うのは少し抵抗がある。また、「突然」は「突然走りだす」のように単独で副詞として使える。「唐突走りだす」とは言わないだろう。さらに後ろに「の」を付けて「突然の訪問」のように一部の名詞を修飾できる。同じように「の」を付けられる副詞には「いささか」「かなり」「なかなか」などがあるが、これらは過去に形容動詞として使われていたが、いまではほぼ副詞としてのみ使われるものだ。「全然」も同じように形容動詞から副詞に移行する過渡期にあるのかもしれない。

日本国語大辞典を見ると「唐突」の用例は古い。718年の律に「若畜産唐突」とある。ここでは動詞として使われており、「若い家畜が突然走りだした」という意味だろう。字通によれば「唐」という字はもともと儀礼を行う広間のことを指し、広い・大きい、また広い道という意味がある。「唐突」も、もともとは広い道を不意に走りだすことを言い、そこから転じて「いきなり」という意味を持つようになったのだろう。形容動詞としての用例も続日本後紀(836年)から見られる。

それに比べると「突然」の用例は新しい。形容動詞としては寛永刊本蒙求抄(1529年)の「思ひもよらず、突然として出ぞ」、副詞としては新令字解(1868年)の語釈が用例としてあった。

「突然」と似た副詞として「断然」「全然」も見てみよう。「断然」も「全然」も19世紀中頃から形容動詞と副詞の両方の用例が見られるのだが、語誌の欄に面白いことが書いてあった。

「断然」の方には「形容動詞の用法が副詞化したもの」とあった。これはまあよいとして、「全然」の方にこうあった。

(1)近世後期に中国の白話小説から取り入れられ、「まったく」というルビを付けて用いられていた。
(2)明治期に入っても、小説では「すっかり」「そっくり」「まるで」「まるきり」などのルビ付きで用いられていることが多い。

白話小説とは中国の口語体で書かれた小説のことだ。

ここからは推測だが、「突然」を含めた「○然」という言葉は中国語の口語的表現で 、白話小説が日本で広まった近世以降に日本語に取り入れられたのではないか。「唐突」が「熟語+なり・たり」という一般的な形容動詞の形をとるのに対して、「突然」が外れた形をとる理由は私には分からないが、近世以降一般的な文語文体であった候文が関係しているのではないかという気はする。候文では多くの副詞が漢語のままカナを使わず書かれる。

「唐突なり」という言葉が早くから日本語取り入れられ口語としても定着したのに対して、「突然」のような新しい漢語はまず文章として輸入され、カナを使わない用法が口語にも取り入れられたのではないか。

 

2015/08/14追記

「自然」という人口に膾炙した言葉の影響もあるのかも知れない。

当然という意味の「自然」は形容動詞だが、nature・山川草木という意味での「自然」は名詞である。形容動詞と名詞で少し意味の範囲が異なる。

とはいえ「自然な成り行き」と言うべき所を「自然の成り行き」としても、今はもうあまり違和感はないかも知れない。

自分を曲げたお前には、もう二度と、ラッキーはやらない!

 

相棒シーズン13 最終回「ダークナイト」改善案 - あざなえるなわのごとし

偽物を暴行したのもそうだけど、そのために友人を使ったのがサイテーにダサい。甲斐が自分で別の暴力犯を制裁し、そこにアリバイトリックを持ってくればよかった。

2015/03/23 20:58

 ダークナイトの予告を見た時、「杉下右京の圧倒的な正義の前に、周囲の者が歪んでしまう」みたいなテーマを期待した。そういうの好きだ。テーマは概ねそんな感じだったのだが、なんというかお話がショボくてどうにも。

最初から甲斐が犯人であることを示唆する演出が露骨だったので、実は甲斐は友人をかばっているだけじゃないかとおもったら別にそんなこともなく普通に甲斐が犯人だった。どんでん返しとか起承転結の転みたいな要素もなく、アリバイトリックらしきものも大したことなかった。一応推理モノなのにどうなの。

せめて悪役が魅力的ならドラマとして良かったのだが、そこら辺も不満だった。上のブコメで書いたように、既に法の裁きを受けることが決まっている偽物をわざと逃して私刑を加え、しかもその実行犯に、過去に恩を売った友人を使うというダサさ。

今まで用意周到に完璧な犯行を行っていたダークナイトだったが、偽物が逮捕されたためにやむを得ず急遽犯行を行ったために初めてボロを出した、みたいな展開なら面白かった気がするんだよなあ。

天のバブみと地のバブみ

バブみという言葉には違和感を持っていた。少女に母性を求めるという趣味は非常によく分かるのだが、音が汚い。3分の2が濁点って、怪獣やロボットじゃないんだから。あとバブみを感じるキャラとして、高校生ぐらいのいかにも包容力がある、まあ要は巨乳のキャラを挙げている人がいるのもよく分からなかった。バブみってそういうものか? 雷ちゃんや桃華ちゃまみたいな少女だけど包容力がある、みたいなキャラに使うのはまだ分かるが、もっと無垢な、なんなら頼りないぐらいの少女に母性を感じるのがバブみの面白さじゃないのか? え、もりくぼに母性を感じたこととか無理やり甘えたいとか思ったことあるでしょ? 無い? おかしいなあ……。

まあ「頼りがいのある幼女」にしても、単なるギャップ萌えにとどまらない何かがあるんじゃないかと思って、ユングの提唱した元型の一つである「太母(マグナマーテル)」についてちょっと調べていた。元型とは、阿頼耶識とか普遍的無意識とか歴史の記憶とかみたいなもので、まあ言葉を重ねるほど胡散臭くなるので置いておく。

 で、下の創元社ユング心理学辞典」の「太母」の項の説明に興味深いものがあった。

ユング心理学辞典

ユング心理学辞典

  • 作者: アンドリューサミュエルズ,フレッドプラウト,バーニーショーター,Andrew Samuels,Fred Plaut,Bani Shorter,浜野清志,垂谷茂弘
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 1993/12
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

ユングは、元型論によって、母親が子供に及ぼす影響は、必ずしも一個人としての母親自身やその実際の性格特徴に由来しているわけではない、という仮説を立てるにいたった。さらに、母親が所有しているようにみえながらも、実際には「母親」を取り囲む元型構造に由来するさまざまな特質があり、子供がそれを母親に投影している、ということがある。
太母とは、集合的な文化経験から引き出された一般的なイメージに対する命名である。イメージとして元型的性格を十二分に発揮し、肯定ー否定の両極性をもあらわにする。乳児は母親に対する幼い頃の依存と傷つきやすさとを肯定ー否定の両極にはりめぐらせることで、自分の経験を系統づけていく。肯定の極にまとめあげられる特質は、次のようなものである。「母親らしい心くばり、いたわり。女性特有の呪術的な権威。理性を超えた知恵と霊的高揚。助けとなる本能、衝動。慈悲深いものすべて、育み、支え、成長と豊穣を促進するすべてのもの」。要するに、良い母である。「すべての秘密、隠蔽、暗黒。奈落、死者の国。呑み込み、誘惑し、害をなし、運命のように逃れられない、身の毛のよだつものすべて」。

まあ要は、母親の実際がどうであれ、子どもが母親に抱く偶像があるという話であり、幼女に母性を見だすというのもそれと関係があるんじゃないかと思ってそもそも元型について調べていたわけだ。

で次が重要なのだが。

以上の、個人的/元型的、良い/悪いの二元性のほかに、大地的/霊的の二元性を付け加えなければならない。すなわち、地下に住む、農耕にかかわる太母と、神聖で、天上的、処女的な形態をとって現れる太母である。この二元性も、乳児が抱くようになる普通の母親イメージに、その反映をみてとることができる。

 『神聖で、天上的、処女的な形態をとって現れる太母』。ここで膝を打った。我々が少女に感じる母性も、天上神的性格のものと、地母神的性格のものがあるのではないか。すなわちこれが天のバブみと地のバブみである。あるいは、タロットの女教皇と女帝のイメージに、それぞれ天と地を割り振ることもできるかもしれない。

地のバブみ

 地の方はある意味わかりやすい。子どもを育むと同時に支配し、我が娘のためならば悪事も自己犠牲も厭わない、凄まじきものとしての母である。

保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。度胸の好いい母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来如何いかなる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々づうづうしい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。空には南風みなみかぜの渡る中に円まるい春の月が一つ、白じろとかすかにかかつてゐる。……

芥川龍之介「あばばばば」

 ガンダムなら、「勝った者を、私が全身全霊をかけて愛してあげるよ!」と言ったカテジナさんや、「お母さんをやりたければ、自分で子供を産んで、それでやってくださいよ!」とウッソに言われたルペ・シノは地のバブみを体現していると言っていいだろう。

天のバブみ

天の方は自分でもまだはっきりとは掴みかねているのだが、少女的な、無垢さ・純粋さ・神秘性などに母性を見るものだ。シャアが「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」と言ったアレである。シロッコが言った「私は次の時代を動かすのは女性だと思っている」や、ザンスカール帝国のマリア主義も、天空神的母性に期待してのものだろう。地母神的母性は、家族的・肉体的な性格が強いものだからだ。

 

この二つの属性は相反するというよりは互いに高め合うような性質のものかもしれない。「幼い少女が包容力のある性格をしている」という場合でも、単にギャップ萌えというだけではなく、そのような二つの属性を持つ事こそが「母性」を高めているのではないか。

人を食った機械の話

日立、集団の幸福感を測定する技術を開発 - PC Watchという記事を読んだ時最初に思いついたのは「エリアストレス警報が発令されています」というPSYCHO-PASSネタだったが、ブコメではパラノイアの方が人気だった。機械に支配される人間というのはSFの定番ネタだが、PSYCHO-PASSもその一種で「銃に使われる警官」がテーマだったか。

それにしても「市民、あんたは幸福ですか?」の問に答えなくともコンピュータ様が自分で幸福かどうか判定してくれる技術が実用化されつつあるというのだから、また一つ現実がSFの先を行こうとしている。TRPGならどう活かせばいいだろう。トーキョーN◎VAの制御判定的なものをすればいいだろうか。理性でも感情でも生命でも外界でもそれなりに理屈が付きそうなので、成功しつつカードを回すにはいいかもしれない。

昔のブクマを漁ると、画像認識で「笑顔度」を測定するスマイルチェックを作ったのはオムロンだった。

スマイルスキャン | 社会の安心・安全・快適ソリューション | オムロン ソーシアルソリューションズ株式会社

最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信

確かこのスマイルチェックには、視覚障害者が接客業に就いた際の悩みから開発されたとかそういうお話もどこかで読んだ気がするのだが。それはそれで自分のものも他人のものも笑顔を見ることが出来ないのに機械の判定にしたがって笑顔を作るというのは何やら悍ましい感じもするし、クオリア的な問題も考えさせられる。

笑わないと開かない冷蔵庫というのはパブロフの犬みたいで単純に馬鹿らしいのだが、実験を信じるなら冷蔵庫の扉が重くなる程度でも人間は10日たてば笑顔を作るようになるという。最初の幸福度にしても、数値を常時職場のモニターに表示しておくだけで、スコアを良くするための行動をみんななんとなく取り始めるんじゃねえかなあ。

多分戦場ジャーナリストに軍歴は必要ない

戦場ジャーナリストって、外国では退役軍人なり徴兵経験者がやる仕事なん..

一流の写真家集団であるマグナム・フォトのメンバーに軍役経験者がどれだけいるのか調べてみた。

マグナム・フォト東京支社〜ストックフォト、写真家・写真展情報のご案内〜

日本語公式サイトのプロフィールしか見てないので、軍歴を書いていないだけの人もいるかもしれないし、全員が戦場での取材をしているわけではないことはあらかじめ述べておく。従軍記者や後方勤務っぽいのも一応抜き出しておいた。

  • アンリ・カルティエ=ブレッソン Henri Cartier-Bresson フランスのレジスタンス活動に参加
  • ジョージ・ロジャー George Rodger 第二次大戦中は、米雑誌『ライフ』の特派員として、アフリカ、中近東、アジア、ヨーロッパ戦線を取材。戦争中最も長い道程を取材した記者としてライフ誌に紹介された。
  • デビッド・シーモア David Seymour (Chim) 戦争中はアメリカ軍の軍属として、写真偵察やその解析にあたる。
  • レイモン・ドゥパルドン Raymond Depardon 兵役のあと1967年に、仲間と写真通信社「ガンマ」を設立。
  • ポール・フスコ Paul Fusco 1951年から3年間写真家としてアメリカ陸軍通信隊に所属する。
  • コンスタンティン・マノス Constantine Manos 1956年から58年まで兵役につき、軍の機関紙のスタッフフォトグラファーとして勤務。
  • エリック・レッシング Eric Lessing 第二次世界大戦中、飛行士、写真家として英軍に従軍し、1947年にウィーンに戻る。
  • マルク・リブー Marc Riboud 1943年から45年までレジスタンス運動に参加し、その後リヨンの国立高等工芸学校にて工学を学ぶ。
  • コーネル・キャパ Cornell Capa 第二次大戦中は、米空軍写真情報部・広報部に勤務。
  • バート・グリン Burt Glinn 1943年から46年まで兵役を務め、49年にハーバード大学を卒業。
  • エリック・ハートマン Erich Hartmann 1943年、アメリカ陸軍に志願、ヨーロッパに駐留。
  • ウェイン・ミラー Wayne Miller 1942年から1946年まで海軍に従事し、そこでエドワード・スタイケンと出逢う。

写真家一覧ページでプロフィールが見られる79人中12人である。スイス人のワーナー・ビショフとかは徴兵歴があるかもしれないが、よく分からん。

軍歴のある人間自体は結構いるが、ほとんどは二次大戦時代であり、兵士として前線に立っていなさそうな者も多い。マグナム・フォトには若くて主に戦場で活動しているメンバーもたくさんいるが、彼らのプロフィールに軍歴はなかった。抜けがあったら教えて下さい。

というわけで、多分戦場ジャーナリストに軍歴は必要ない。増田の記事を好意的に読むなら、こういう独立系のジャーナリストではなく、企業が採用する場合に軍歴を持つものを優遇する可能性はあるかもしれない。僕はそういう話は知りませんけども。

木槌にすべてを

俺タワーというDMMのゲームを最近プレイしている。引っ掛かりがないというか、ひたすらレベルを上げて資源を貯めて塔を高くする賽の河原ゲーなのだが、なぜこんな甲斐のないゲームを延々プレイしいるのかというと、このゲームに登場するキャラが気に入ったからだ。というか一人のキャラクターにここまで心奪われるは久しぶりなのでいささか自分でも戸惑っている。

f:id:type-100:20150123043243p:plainf:id:type-100:20150123043255p:plain

左が木槌で右がその進化形の大木槌だ。性格はまあなんというかこまっしゃくれたお子様なのだが屈託のない元気な感じがとても微笑ましく、声優さんの力も大きいのだが救出時ボイスの「あの子を、助けないと!」とかいい子なんだなあと感じられて素晴らしい。

あと風呂覗いた時に本気で嫌がってる感じなのがいい。あんまりこっちに向かって露骨な性的アピールしてくるヤツは信用ならない。俺のことを無条件で好きになるような志の低いキャラは嫌いだ。「膝の上に木槌を乗せて頭をくしゃくしゃに撫で回して『やめろよー』と嫌がられたい」という妄執に囚われることが度々あった。年末忙しかったので疲れていたのだと思う。キャラグッズが欲しくなってクリスマス頃に東急ハンズに行って木槌を買ってしまった。もうちょっと大きいのが欲しいので今度は別のホームセンターに行こうと思う。

見た目も好みで特に大木槌の絵は珠玉だと思う。無造作にハサミで止められた活動的なポニテに、「ムフー」って擬音語が聞こえてきそうな自信満々な顔が愛らしい。小さな体に大きな武器、片方はガーターで止められて片方はずり落ちたソックスからはアンバランスな危うさが感じられて、引き込まれる。露出度が低いのもいい。ロリに露出度など要らぬ。

ただ木槌ちゃんはなんというかゲーム内での扱いが不憫なのだ。風呂を覗いた時のボイスにも「金鎚にまでこんな事してたら、許さないぞー!」というのがあり、破損時にも言及する(らしい。俺は聞いていない)など、木槌ちゃんは友達の金槌のことをとても気にかけているのだが、金槌の方は木槌に一切言及してくれない。なんでや。お陰でこのゲームのプレイヤーからは可哀想な子扱いされている。

捕獲確認時のボイスに「どっかのマヌケが捕まったみたいだぞ!」というのがあるのだが、木槌は低レアキャラのため他のハズレとして頻繁にでまくり、自分で自分を間抜け扱いすることがあるのもネタ扱いに拍車をかけている。

ゲーム的な性能も何というか微妙に使いづらい。

戦闘面では、進化すると何故か命中と回避が下がる。加撃・極という強力なスキルを持つ当たればデカイ一発屋なのだが、攻撃はあくまで「軽量級の中では」トップクラスという程度である。高難易度ステージを攻略するために本当に火力が欲しいなら、重量級キャラを使うほうが楽である。大木槌の耐久力だと一発食らうと簡単に瀕死になるためどうにも安定しない。

建築面でも改築というこのゲームにおける重要スキルを持っているのだが、建築のパラメーターが低いため、キャラが揃ってくると用済みになる場合も多い。

基本的にぬるいゲームなのでそれでもレベルさえ十分に上げとけば使えなくはないレベルなのだが、どうにも愛が必要になる……という感じだったのだが、最近このゲームに第二進化が追加された。最初に第二進化が開放された最初の3人に木槌が選ばれたのである。

f:id:type-100:20150123064408p:plain

それがこの横槌である。弱点であった命中回避が軽量級の中でも高水準に、攻撃はさらに高くなり、反撃という手数を増やすスキルも得たことで、あらゆる点が高水準でまとまった、非常に使い勝手の良い最強クラスのアタッカーとして生まれ変わった。もちろん他のキャラも第二進化が開放されれば状況は変わるだろうが。

あとちょっとだけオヤカタ相手にデレてくれた。花飾りをつけてちょっとだけおめかししているのも合わせて、獲物は小さくなっても確かな成長や変化を感じる。一緒にいて楽しい。だから俺は今日も横槌と共に、甲斐のないゲームを続けるのである。