「圧倒的」

「圧倒的」という言葉は、伝統的には「対立するものを圧倒するような勢いで」という意味で使われるが、最近は特に比較するものなしに「見るものを圧倒するような雰囲気で」という意味でも使われるなあ。

さらに俗な言い方ではあるが、単に「勢いが強い」という意味でも使われている。

釘抜紋→釘抜奴→奴豆腐→冷や奴

 

  •  釘抜紋(くぎぬきもん)は武家の縁起がいい柄

http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kugi.htmlwww.harimaya.com

  •  それを背に付けた半纏を着た下層武士が釘抜奴

    blog.goo.ne.jp

  • その紋みたいに四角く切った豆腐が奴豆腐
  • それを冷やしたのが冷や奴

語源に文句言っても仕方がないが、奴豆腐じゃなくて「釘抜き豆腐」で良かったんじゃないか感パない。

 

 

みんなが無限唐揚げより2段ジャンプを選んだ世界線

一昔前のオタクにとって手から出るのは和菓子だが、増田の手から出るのは唐揚げと相場が決まっている。

anond.hatelabo.jp

無限唐揚げが現実主義の象徴、2段ジャンプが理想主義の象徴のように扱われているが、全く関係ない突拍子も無いものを比較しており、ツッコミどころ満載である。

ブコメでcider_kondo氏が言うように議論誘発力が高く、トラバでもブコメでも様々な意見が交わされたが、見たところどちらかというと唐揚げ派が優勢だった。

そのため増田二段JUMP普及協会が巻き返しを図っていた。

カテゴリー 「増田二段JUMP普及協会」 - はてな匿名ダイアリー

まあ普及協会は短期で活動を終えたのだが、唐揚げと言えば2段ジャンプというミームはその後も増田民の心の中に生き続けている。

[増田アース]ニダンバッタの奇妙な生態

唐揚げイコール鶏みたいな風潮

そして今日、唐揚げを手から出せるマンを求める増田が現れた。

anond.hatelabo.jp

おそらく増田の周囲では、みんなが唐揚げよりも2段ジャンプを選んでしまったのだろう。増田二段JUMP普及協会も草葉の陰で喜んでいるに違いない。

あ、俺も2段ジャンプの方がいいです。だって手から無限唐揚げって絶対世界の理を歪める系の能力だから後でとんでもないしっぺ返しくるよ。2段ジャンプみたいに物理法則をちょっとごまかしてるのとは訳が違うよ。

同窓生とは何ぞや?

入試不正関連のニュースに「同窓生」という言葉があふれているが、これってどういう使われ方なのだろう?

同窓生ってある人と別の人との関係性を表現する言葉だけど、入試不正の文脈だと「学校」が「同窓生の子弟」を優遇したと伝えられてるんだよね。学校という概念・法人にとって、誰かと同窓生という関係性が結べるのだろうか。

発端となった東京医大の件では同窓会から依頼があった生徒を優遇したという話もあったので、「同窓会の会員」を略した結果「同窓生」になったのかもしれない。

いずれにしても、今後使われ方をウォッチしていきたい。

「前」とは見えている範囲

 

前後ぉ/////

時が前に進むと誰が決めたんだ→確かに1日前には進まない

2017/03/17 01:37

日本語の「まえ」は本来「目方」と漢字をあて、「尻方(しりえ)」と対になる言葉である。つまり「まえ」の中心的な意味は「自分の見ている方向」あたりになるのだろう。未来は見えないが過去は自分が見てきた範囲である。それ故時間については進行方向後ろが「まえ」になる、という風に理解しておく。

「丸み」は丸められない

 

「○○み」っていう表現ヤメロ

いや例えば、凄さと凄みって全然違うよね。ある表現が嫌いでもこういう適当な批判をしてはいけない。/「さ」は自分が受け取った感覚、「み」は対象の性質に重点を置いた表現と捉えるべきでしょうね。

2017/03/05 19:52
動詞の連用形で概念を表す名詞化することから来てるんじゃないかなあ 悲し..

最初俺もそう考えたが、この理屈だと文語高むの名詞形「高み」と、口語高める名詞形「高め」の意味が一緒にならないとおかしい。形容詞「高い」の語幹に接尾語「む」がついたと考えるべきだろう。

2017/03/06 10:03
「○○み」は概念そのもの、「○○さ」は定量的な判断を加味している。 だ..

この辺の感覚は曖昧なので「真剣み」とか逆にちょっと使いづらくなってる気もする。

2017/03/06 10:13

ブコメで言いたいことは大体書いてしまったので以下取り留めも無く書き散らす。

日本国語大辞典には「み」について以下のようにある。

形容詞または形容動詞の語幹に付いて名詞をつくる。

①そのような状態をしている場所をいう。「高み」「明るみ」「深み」など。

②その性質・状態の程度やその様子を表わす。「さ」と比べると使われ方は限られる。「厚み」「重み」「苦み」「赤み」「面白みに欠ける」「真剣みが薄い(たりない)」など。

補注

②の中には、漢語の「味」と混同して意識され、「味」をあて字として用いることも、近代には多い。

よく言われる「○○み」への違和感というのは、「バブい」とか「わかりい」とかいった元になる形容詞が無いのに「バブみ」や「わかりみ」といった派生形だけが使われていたり、普通は「み」を付けない形容詞に対して使われているからであって、単に「それは元来「○○さ」が担ってきた役割だ」というのは全く的外れだ。両者は意味が違うので、当然「担ってきた役割」も別だからである。標準的でない「○○み」という言葉が使われている場合、話者は多くの場合「○○さ」には収まらない意図を伝えようとしているのである。

で、「力む」→「力み」のようにマ行4段、5段活用動詞の連用形は名詞としても使われるため、これが拡大して使われるようになったのではないかと当初は思っていた。この場合「丸み」「高み」に対応する動詞「丸む」「高む」などは耳慣れないが、文語には存在する。

しかしブコメにも書いたように、文語「丸む」は口語「丸める」に相当するにもかかわらず、それぞれの連用形「丸み」と「丸め」は明らかに違う意味の言葉である。正確に言うと、かつては文語「丸み」も「丸めること」という意味を持っていたのかもしれないが、現代に生きる我々はそう解釈しない。接尾語「み」は日国に書かれているように、場所や属性を示すという独自の役割を持っているのだ。

つまりこの増田(「○○み」は、もともとは場所を表す名詞化だったのかな 「深みにはまる」..)が言っているいることは全く正しい。なにやら揶揄するようなトラバが付いているが、何が問題なのか説明してほしいものだ。

了解と承知はどちらが丁寧か? 北原保雄VS中村明

賢明なるはてなー諸兄なら、承知と了解のどちらが敬意を含んだ表現かという問題があることはご存じだろう。

「了解」は失礼か? - アスペ日記

失礼以前に「了解」と「承知」は意味が違うじゃん? - 最終防衛ライン3

最初に個人的な使い分けを書いておくと、僕は会社の上司など「身内」の人間からの依頼には「了解」を、顧客など「外部」の人間からの依頼には「承知」を使う。

「了解」には依頼内容の背景や相手の事情を理解した上で、自分の事として引き受けるという意味合いがある(と僕は思っている)。同じ社内の人間であればある程度の事情は知っており、責任や目的などを共有すべきなので、(実際がどうかにはかかわらず)「了解」を使う。顧客など外部の人間とはそこまでの一体感がなく、また安易に示すべきでも無いと思うので、単に依頼内容を把握して引き受けた、という意味合いで「承知」を使う。外部の人間でも、ある程度やりとりを繰り返して関係を構築した後なら、「了解」を使うかもしれない。

あと、「承知」という言葉を相手に使われた場合、「お前の言うことは分かったけど、それについてこちらがどうするかはこれから検討するよ」という意味合いを感じるのに対し、「了解」の場合はすぐに実効してくれるのだろうなと感じる。

もちろんこういう感覚を共有していたとしても、「お前ごとき下っ端がこちらの事情を理解しているなどおこがましい」という反応をする上司もいるかもしれないが、それはまあ知ったこっちゃない。

 

さて、了解が失礼だという認識が広がった大きな理由の一つには、おそらく「明鏡国語辞典」がある。この辞書は言葉の使い分けについての記述が多い(そしてその基準が個人的にはあまり同意できないことが多い)のが特徴の辞書なのだが、「了解」の項の<表現>に以下のようにある。

近年目上の人の依頼・希望・命令などを承諾する意に使う向きもあるが、慣用になじまない(ぶっきらぼうで敬意が不足)。「分かりました」「承知しました」のほか、「承りました」「かしこまりました」などを使いたい。

明鏡国語辞典の編集者として有名な北原保雄が筆頭編著者になっている「問題な日本語 その4」のコラムにも以下のようにある。

上司に「報告書を至急上げてくれ」と言われ、「了解しました」と答えるのは、言葉の誤用ではない。しかし、部下などの目下の人にこう返事されると、失礼だと感じる人が少なくないようだ。「了解した」は、理解した、理解して承認した、という意味。「了解しました」はそれに「ます」を続けて丁寧な言葉遣いにしているのだが、意味としては変わらない。相手によっては、偉そうな言い方だと思われてしまう。 

しかし、ほぼ逆の語釈をしている辞書もある。

中村明著「日本語 語感の辞典」の「了解」の項には

理解した上で納得する意で、やや改まった会話や文章に用いられる漢語。(中略)結果に重点を置く「了承」に比べ、趣旨を十分に理解するという過程が前提になる。 

 「承知」の項には

知っている 、要求などを聞き入れる意で、会話でも文章でも広く使われる日常の漢語。(中略)「承諾」とは違って、認めるところまで言及せず単に知っている。段階までをさす用法もある。そのため、同じ意味で使っても、「承諾」より軽い感じになりやすい。

とある。中村が監修している大辞泉の「了解」の項にも<用法>の欄で同じような解説が書かれている。

この語釈はほぼ僕の感覚と一致する。「承知しております」といった場合の「承知」には「知っている」という意味しかないこともあって「承諾する」という意味で「承知する」を使うには心理的な抵抗がある、というのは辞書を繰る中で気付かされたことだった。「現代国語例解」の「了解」の項にも以下のようにある・

「了承」が相手の示した案などを認める手続き上の行為とされるのに対し、「了解」は内心で理解し、認めるような場合にもいう。

「了承」は手続き上の行為とあるが、僕は「承知」にも同じような意味合いを感じている。

他に僕の感覚に近いものとして、「類語活用辞典」の「了解」の項に

<承知>は、あいての願いや希望、要求などを認めたうえで、自分のこととして引き受けるという点に意味の重点があるが、<了解>は、そのことの事情や理由などがよく分かって、認めるという点に意味の重点がある。

とあった。ちょっと意味が取りづらいのだが、「承知」は引き受けること、「了解」は理解していることに意味の重点があるということだろうか。

今回の件から我々が得るべき教訓は……、辞書を引く時には複数のものをあたり、話半分に受け入れて、自分に都合のいいものを使え、ということだろうか。

 

以下蛇足だが、興味深いものとして、「新明解国語辞典」の「承知」の<運用>には

「承知していない」の形で、正規の手順を経て伝えられていないから話題として取り上げる価値がない、という気持を表すことがある。

「了解」の<運用>には

相手からの指示・命令に対して納得したことを表す返事として用いられることがある。

とあった。