「唐突」と「突然」
「唐突」と「突然」という熟語がある。どちらもおおむね「いきなり」という意味の言葉だが、使われ方には少し差がある。
「唐突」はいわゆる形容動詞 - Wikipediaだ。終止形なら口語は「だ」、文語は「なり」が後について使われる。「突然」も形容動詞だが、個人的な感覚かも知れないが、「だ・なり」を付けて使うのは少し抵抗がある。また、「突然」は「突然走りだす」のように単独で副詞として使える。「唐突走りだす」とは言わないだろう。さらに後ろに「の」を付けて「突然の訪問」のように一部の名詞を修飾できる。同じように「の」を付けられる副詞には「いささか」「かなり」「なかなか」などがあるが、これらは過去に形容動詞として使われていたが、いまではほぼ副詞としてのみ使われるものだ。「全然」も同じように形容動詞から副詞に移行する過渡期にあるのかもしれない。
日本国語大辞典を見ると「唐突」の用例は古い。718年の律に「若畜産唐突」とある。ここでは動詞として使われており、「若い家畜が突然走りだした」という意味だろう。字通によれば「唐」という字はもともと儀礼を行う広間のことを指し、広い・大きい、また広い道という意味がある。「唐突」も、もともとは広い道を不意に走りだすことを言い、そこから転じて「いきなり」という意味を持つようになったのだろう。形容動詞としての用例も続日本後紀(836年)から見られる。
それに比べると「突然」の用例は新しい。形容動詞としては寛永刊本蒙求抄(1529年)の「思ひもよらず、突然として出ぞ」、副詞としては新令字解(1868年)の語釈が用例としてあった。
「突然」と似た副詞として「断然」「全然」も見てみよう。「断然」も「全然」も19世紀中頃から形容動詞と副詞の両方の用例が見られるのだが、語誌の欄に面白いことが書いてあった。
「断然」の方には「形容動詞の用法が副詞化したもの」とあった。これはまあよいとして、「全然」の方にこうあった。
(1)近世後期に中国の白話小説から取り入れられ、「まったく」というルビを付けて用いられていた。
(2)明治期に入っても、小説では「すっかり」「そっくり」「まるで」「まるきり」などのルビ付きで用いられていることが多い。
白話小説とは中国の口語体で書かれた小説のことだ。
ここからは推測だが、「突然」を含めた「○然」という言葉は中国語の口語的表現で 、白話小説が日本で広まった近世以降に日本語に取り入れられたのではないか。「唐突」が「熟語+なり・たり」という一般的な形容動詞の形をとるのに対して、「突然」が外れた形をとる理由は私には分からないが、近世以降一般的な文語文体であった候文が関係しているのではないかという気はする。候文では多くの副詞が漢語のままカナを使わず書かれる。
「唐突なり」という言葉が早くから日本語取り入れられ口語としても定着したのに対して、「突然」のような新しい漢語はまず文章として輸入され、カナを使わない用法が口語にも取り入れられたのではないか。
2015/08/14追記
「自然」という人口に膾炙した言葉の影響もあるのかも知れない。
当然という意味の「自然」は形容動詞だが、nature・山川草木という意味での「自然」は名詞である。形容動詞と名詞で少し意味の範囲が異なる。
とはいえ「自然な成り行き」と言うべき所を「自然の成り行き」としても、今はもうあまり違和感はないかも知れない。
硫黄の臭い染み付いて
御嶽山リポート「硫黄のような臭いが・・・」 東大教授がツッコミ「硫黄は無臭だ」 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
「硫黄」は元素記号Sよりも広い概念だと思いますよ。英語でもsulfurous odorって言うみたいですし
はてなブックマーク - 御嶽山リポート「硫黄のような臭いが・・・」 東大教授がツッコミ「硫黄は無臭だ」 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
語義ねぇ……。硫黄の語源の有力な説の一つは「湯泡(ゆあわ)が訛ったもの」なので、硫黄泉からわき出る泡、即ち気体の硫化水素こそが本来の「硫黄」である可能性が微レ存。
「硫黄のにおいががする」に「硫黄は無臭だ」と返した恥ずかしい理系教授
今更だけど個人的なメモとして一応書き残しておこう。
「硫黄」という言葉は日本に科学や原子論という概念が導入される以前から存在する。だから当然、「硫黄」という言葉で表されるものは元素記号Sで表されるものと一致しない。極端な例を上げれば、「水」とH2O、「鉄」とFeの関係と同じだ。
そこら辺を意識して語源に詳しい辞書、大言海をみるとこうある。
ゆのあわ(温泉泡)の約転、黄の音に紛れ誤る
もともとユノアワという和語があったところに中国から入ってきた「硫磺(硫黄)」という文字が当てられ、音が変わったわけだ。
「馬鹿」や「助長」の例を見れば分かるように、語源と現在の言葉の意味は必ずしも一致しないが、もともと硫黄というのはもっと広い意味で使われていたものであることを考えれば、一概に「硫黄の臭い」という表現も否定出来ないのでは無いだろうか。
「ほっこり」は誤用されていません
世界から誤用の"ほっこり"を誤用で撲滅する - 斗比主閲子の姑日記
日国を見ると、暖かい・ふくよか・明るい・気持ちが晴れやかなどの意で江戸初期の用例がある。そこから満足→退屈・うんざりのように意味が広がったのではないか/ということで、事実誤認の言葉狩りです。
日本国語大辞典第二版から抜粋(一部省略)
【一】〔副〕
(1)いかにも暖かそうなさまを表わす語。*かた言〔1650〕五「ほっこりはあたたまるかた歟。是もほは火成べし」
(2)ふくよかなさま、また、ふかしいもなどのふっくらとして柔らかいさまを表わす語。*狂歌・狂歌糸の錦〔1734〕「寄餠恋 ほっこりとくどきもやらでつき廻りあへさがされし手もちぶさたや」
(3)色つやがよく明るいさまを表わす語。*俳諧・新増犬筑波集〔1643〕油糟・雑「雲の上にも湯やわかすらん ほっこりと洗ふたやうな月のかほ」
(4)気持が晴れたり、仕事や懸案のことがかたづいたりして、すっきりとしたさまを表わす語。*浮世草子・傾城歌三味線〔1732〕五・一「床へはござれど痞(つかへ)がいたむとて、今にほっこりとした事もないげな」
(5)うんざりしたり、困り果てたりするさまを表わす語。*浮世草子・諸芸独自慢〔1783〕二「今かけ屋敷を八十三軒持て居りますが、イヤモ世話なもので、ほっこり致しました
【二】〔名〕
ふかした薩摩芋をいう。
方言
【一】〔副〕
(1)暖かいさまを表わす語。《ほっこり》新潟県佐渡352和歌山市「ほっこりぬくもる」691
(2)ほっとするさま、安堵(あんど)するさまを表わす語。《ほっこり》京都府629《ほっこる》富山県砺波398
(3)十分に満足なさまを表わす語。《ほっこり》愛知県知多郡「ほっこりした柿はならなんだ」570三重県松阪584
(4)全く。本当に。大いに。《ほっこり》石川県能美郡419福井県427坂井郡「ほっこり厭になってしまった」433滋賀県607高知県「ほっこり字が上手じゃげな」862《ほっこし》福井県427滋賀県彦根609
(5)非常に疲れたさまを表わす語。《ほっこり》福井県427「半日も洗濯してほっこりした」448岐阜県本巣郡510滋賀県犬上郡615神崎郡616京都市621大阪市638
(6)退屈なさまを表わす語。《ほっこり》三重県阿山郡585滋賀県彦根609京都府629《ほっこい》三重県伊賀585
(7)うんざりしたさま、閉口したさまを表わす語。《ほっこり》福井県足羽郡440滋賀県甲賀郡611
(8)ほとんど。《ほっこり》滋賀県神崎郡616
(9)不十分なさまを表わす語。《ほっこり》福井県大野郡427
(10)少々。少しばかり。《ほっこり》群馬県多野郡232《ほっごり》富山県下新川郡391《ほっこち・ほおっこち》埼玉県秩父郡「あちゃ、ほっこちくれてみろ」251《ほっこしょ》富山県下新川郡「ほっこしょも知らん」392
資料の年代からしても、もともとほっこりは「温かい」という意味で使われていたと見るのが妥当だろう。そこから「満足」→「食傷・うんざり」→「疲れた」という風に意味が拡大・変化していったと考えられないだろうか。方言の(5)の用法が近畿地方をを中心にしていることから、方言周圏論的にも合致するように思える。
また、(1)の用例の出典である「かた言」は京都の商人・俳人である安原貞室が著したものだ。17世紀の京都においてほっこりは「温かい」という意味で通ったと見ていいだろう。
言葉の好き嫌いはあって当然だと思うが、誤った認識から他人の表現を排除しようとするのはいかがなものかと思う。