「おおきな」「ちいさな」は形容動詞か、連体詞か
「おおきな」の歴史
「おおきな」「ちいさな」の品詞は、形容動詞か、連体詞か、どちらだろう。どうでもいいが、なかなか面倒な問題である。「おおきな家」「ちいさな人」というように、このことばは名詞を修飾する。「きれいな花」のように形容動詞は「な」と活用することで連体形になるのだが、「おおきな」ということばはあっても「おおきだ」ということばはない。そのため「おおきな」「ちいさな」は、活用がなく体言を修飾する語として、連体詞(この・その・あの・どの・我が・いわゆる・大した、など)に分類されることが多い。が、文献によっては、形容動詞に分類される場合もある。連体形しか持たない特殊な形容動詞、という扱いである。
なぜそんなへんてこな分類なのか。連体詞そのものが例外的なヤツらをとりあえず寄せ集めただけの分類というのもあるのだが、「おおきな」には歴史的な文脈がある。
元々日本語に形容詞「おおきい」は存在しなかった。古くからある形は形容動詞「おおき(なり)」である。室町時代以後に「おおきい」が生まれ、形容動詞は姿を消したのだが、連体形「おおきなる」の現代型「おおきな」だけは使われ続けた。*1こう書くと「おおきな」を形容動詞に分類するのは故あることに思えるが、意味や形式上対になる「ちいさな」はまた事情が異なる。
揺れ動く形容詞と形容動詞
形容詞「ちいさい」の古形は「ちひさし」であり、昔から形容詞だった。「ちいさなり」のような形容動詞は存在しないのである。*2
そもそも「おおきなり」から「おおきい」への変化からして、意味上対になる形容詞「ちいさい」に引きずられたものだと考えられている。昔は「事件の大きい小さいは関係ない」というような言い回しをするとなにやら違和感があったわけだからそりゃまあ不便だっただろう。
ところが、生き残っていた「おおきな」に引きずられて、「ちいさい」にも語尾に「な」を付けたい、という需要が後世生まれてきたのである。だから、「ちいさな」の使用例は比較的新しいものしかない。日本国語大辞典の用例では18世紀後半からのものしかないし、大言海には「ちいさい」はあっても「ちいさな」に相当するような項目がない。*3*4
主観的な「~な」
ではなんで、もともと形容詞しかなかったものに形容動詞的な例外を作ったり、元になった形容動詞は消滅したのに連体形だけが現代に残ったりしているのか。形容動詞には、というか「な」で終わる形容には、その「『な』で終わる」という形式だけで一種の役割があるからである。あくまで傾向としてだが、形容詞が客観的なものの性質を表すのに対し、形容動詞は話者の主観的な印象を表現する。一般的な形容詞と形容動詞のリストを見れば、なんとなく感じていだけるのではないかと思う。
また逆説的に客観性を「表さない」ことで、なにやら曖昧な、含みを持たせるような、意味を拡張するような印象を与えられる。かもしれない。要は「客観的にはどうか知らないけど、俺は何となく大きいって感じたよ」ということである。ベストセラー「問題な日本語」のタイトルは、「問題な」自体が標準的な日本語ではないというネタになっているのだが、「問題のある」などと比べれば、「激しく糾弾するのではなく、やんわりと指摘するような」意味合いを感じ取っていただけるのではないだろうか。