スキットルで呑もう

 


新幹線で飲む酒 - 話半分で聞いてください

type-100 - 『新幹線で飲む酒 - 話半分で聞いてください』 へのコメント

そういうときこそウイスキーを入れたスキットルの出番なんですよ。

2014/11/04 21:24 にブックマーク

 訳もなくじんと来てしまったいいエントリです。移動中にしみじみと飲む酒はいいものですが、酔っぱらいたいわけでもないし、腹を膨らませたいわけでもない。風景と感傷を肴に酒を飲む自己陶酔を楽しみたいだけなのです。

そこで取り出しましたるはこのスキットル。ちょっといいウイスキーを買った時にビンから移し替えておき、遠出するときに持っていくのです。元エントリやブコメを見ると酒の臭いを気にする人が多いみたいですが、スキットルは口が小さいので外に匂いが漏れるのを気にする必要はありません。一口含んで噛むように味わい、次第に鼻の奥から立ち上る香りを楽しむのは、移動中の時間を楽しむのにぴったりです。

個人的にはツマミは別になくてもいいですが、チェイサー用の水はあったほうがいいでしょう。下手に缶ビールとか飲むよりも、強い酒をちびちびやるほうがアルコールの摂取量は少なくなるもんです。そのぶん旅先で大いに飲み食いしましょう。

いやまあ、酒を持ち出すだけならペットボトルでも構わないし、酒を飲むためにわざわざ家から準備していくというのはかなりアル中のダメ人間臭いのですが、そういう無駄なことやってる感も含めて、雰囲気に飲まれるための演出なのです。どうですか、スキットル。旅を楽しむ小道具としていいもんですよ。

戦時下の少女倶楽部・メディアミックス・エス

 

日本の軍歌 国民的音楽の歴史 (幻冬舎新書)

日本の軍歌 国民的音楽の歴史 (幻冬舎新書)

 

 こないだ辻田真佐憲・著「日本の軍歌」を読んだ。僕のような素人にも分かりやすく、新書サイズで日本における軍歌の歴史が書かれており、軍民一体となった一大軍歌大国日本の様相がつかめる面白い本だった。

この本の中で触れられている、有名な軍歌「同期の桜」の元となった歌「二輪の桜」が気になったので、ちょっと国会図書館に行って掲載されている少女倶楽部1938年2月号を読んで図書館カレーを食って帰ってきた。

「二輪の桜ー戦友の歌ー」は西條八十の詩だ。辻田氏はレコード化された時の歌詞を本に載せているが、少女倶楽部掲載版を引用してみよう。

君と僕とは二輪のさくら、
積んだ土嚢の陰に咲く、
どうせ花なら散らなきやならぬ、
見事散りましよ、皇国(くに)のため。

君と僕とは二輪のさくら、
おなじ部隊の枝に咲く、
もとは兄でも弟(おとゝ)でもないが、
なぜか気が合うて忘られぬ。

君と僕とは二輪のさくら、
共に皇国(みくに)のために咲く、
昼は並んで、夜は抱き合うて、
弾丸(たま)の衾で結ぶ夢。

君と僕とは二輪のさくら、
別れ別れに散らうとも、
花の都の靖国神社
春の梢で咲いて会ふ。

 読めば分かるが男性同士のただならぬ関係を思わせるような歌詞だ。知られている「同期の桜」の歌詞と比べれば、耽美でなよっとした感じである。辻田氏は

一九三〇年代の日本には、女学生間の親密な関係を示す「エス」と呼ばれる文化があった。男女間の恋愛が禁忌だったために、ことさら女性同士の関係がテーマになったという。

しかし、戦争を舞台にして女性同士の詩は作りにくい。かと言って男女間は禁忌。そこで西条は男性同士の関係を示唆するかのような、当時の価値観からすれば余計に危うい内容の詩を書いてしまった。

としているが、この歌詞だけからは必ずしもそこまで読み取れない。戦前にもBL的な嗜好があったのかもしれないと思い実物を見に行ったのだが、読んでみればなるほど、たしかにこれは「エス」の文化によるものだった。

少女倶楽部1938年2月号にはこの詩の後に西條八十・作、須藤重・画の小説が掲載されている。あらすじを以下に述べる。

少女が上海で戦う海軍陸戦隊の兄のために、お守りの片方の靴下を送る。入れ違いに兄から届いた手紙には戦地であった凛々しい女性のことが書かれていた。しばらくして兄の戦死の報が届く。

喪中に女性から手紙が届き、お守りを預かっていることと、兄の戦死の詳細が書かれていた。兄は便衣兵を追撃中に夜襲を企てる中国軍の本隊に遭遇。傷ついた戦友を助けつつ帰還し、敵の襲来を告げるも、その直後に銃弾に倒れたのだった。

看護婦を志して上京した少女が夜に片割れの靴下を眺めていると、隣の病院の窓から若く美しい看護婦が兄の好きだった「二輪の櫻」を歌っていた。ある日隣の病院が火事になる。若い看護婦が燃える建物の中に駆け込んでいき、炎の中から出てきた彼女の手には、少女が兄に送ったお守りの靴下があった。これをきっかけにお互いを知った二人は姉妹のように友誼を結び、共に従軍看護婦として戦地に旅立つのだった。

たしかにこれは少女どうしの擬似姉妹的な関係を描いた「エス」文化のものだろう。

ラストはいかにも時局を感じさせるものではあるが、西條の文は少女向けに平易ながら格調があり、須藤重の美しい挿絵もあって今読んでも楽しめるものだった。

この詩は後にレコード化されたそうだが、小説中でも歌うことができる「曲」として扱われている。辻田氏はそこら辺書いていないが、同じ講談社のキングが「出征兵士を送る歌」を企画しているところを見ると、「二輪の桜」も元々軍歌を軸にしたメディアミックスを狙っていたのではないかとも思える。

 

二輪の桜以外にも少女倶楽部1938年2月号をざっと通し見してきたのだが、色々と発見があって面白かった。当時は南京陥落が伝えられた直後という時局だったらしく冒頭で写真特集として高松宮殿下上海訪問や南京陥落の写真が載せられている。

戦時下と入ってもまだ連勝ムードで銃後の生活も悪くなかったことが察せられる。巻末の編集部コメントでは、好景気で部数が増えに増えており、次号は南京陥落記念の特別増刊号になると書かれている。二輪の桜を始め、戦陣訓(1941年)が出る前から「死にたがり」な感じの英雄譚がたくさん載っているが、花王石鹸の研究部社員が書いた「いつも美しい髪を保つには」という美容記事もあるなど、軍国ブーム一色というわけではない。ちなみにその記事には「髪を洗うのは1週に1度か1月に3度がよい」とあった。

雑誌の構成としては小説と漫画が多かったのだが、二輪の桜以外に目を引いたものとして「この姉妹(きゃうだい)」(横山美智子・作 須藤重・画)があった。これも「エス」文化を色濃く感じる作品で、

血を分けた妹と知りながら、妹よ、と名乗りも出来ず出征しゆく兄、互いに双生児とは知らず相慕い合う二人の少女、優しくも麗しい涙の感激物語

 というアオリで始まり、

(あなたのお兄さんも良い方だったけど、あなたもいい方ね、大好き……大好き……)

阿佐子は、あかぎれとひびに荒れた花代の手をとって撫でた。花代の目から、涙があふれ出た。濃い臙脂いろのあったかそうならくだの外套と、粗末なエプロンの二少女は、二つの同じ花を見るような顔を親しく寄せあって、夕暮れの寒い店かげに二人とも涙をこぼしつづけた。

 という表現などはなかなかどきりとさせられたのだが、期待して読んでいるとデウス・エクス・マキナ的なとんでもないオチがあってぶったまげた。

懸賞の商品としてオルガン、蓄音機、フランス人形といういかにも少女的なものもあるのだが、高射砲文鎮、戦勝ニュース筆立、軍国えはがきというよくわからないものもあった。少年向け雑誌と共用だったりしたのだろうか。

あと、戦前でも洋風を意識しているときは左から右の横書きを使う場合もあったんだね。広告で、フランス製を謳う「ズロース兼用月経帯 シーズンバンド」の文字がそうだった。その下の商品説明などは、右から左の横書きで書かれていた。

 

硫黄の臭い染み付いて

 

御嶽山リポート「硫黄のような臭いが・・・」 東大教授がツッコミ「硫黄は無臭だ」 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
「硫黄」は元素記号Sよりも広い概念だと思いますよ。英語でもsulfurous odorって言うみたいですし
はてなブックマーク - 御嶽山リポート「硫黄のような臭いが・・・」 東大教授がツッコミ「硫黄は無臭だ」 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
語義ねぇ……。硫黄の語源の有力な説の一つは「湯泡(ゆあわ)が訛ったもの」なので、硫黄泉からわき出る泡、即ち気体の硫化水素こそが本来の「硫黄」である可能性が微レ存。

「硫黄のにおいががする」に「硫黄は無臭だ」と返した恥ずかしい理系教授 

 

 

今更だけど個人的なメモとして一応書き残しておこう。

「硫黄」という言葉は日本に科学や原子論という概念が導入される以前から存在する。だから当然、「硫黄」という言葉で表されるものは元素記号Sで表されるものと一致しない。極端な例を上げれば、「水」とH2O、「鉄」とFeの関係と同じだ。

そこら辺を意識して語源に詳しい辞書、大言海をみるとこうある。

 ゆのあわ(温泉泡)の約転、黄の音に紛れ誤る

(1)古く、ユノアワ。ユノアカ。今又、イワウ。鉱物の名。

もともとユノアワという和語があったところに中国から入ってきた「硫磺(硫黄)」という文字が当てられ、音が変わったわけだ。

「馬鹿」や「助長」の例を見れば分かるように、語源と現在の言葉の意味は必ずしも一致しないが、もともと硫黄というのはもっと広い意味で使われていたものであることを考えれば、一概に「硫黄の臭い」という表現も否定出来ないのでは無いだろうか。

批判と排除の境目はどこか問題

愚行権は「バカなことをやる自由」ではないんだよね - novtanの日常

ネットで叩かれることはどこまでが「排除」なんですかね?

上のエントリで斉藤氏は下のようなブコメを付けている。

もちろん愚行を行ったことに対する批判や自己責任は受容すべきでしょうね。それが排除の方向へと行かなければバランスがとれていると思いますが。

僕は言論・表現の自由をとりあえず一番大事なものとして自分の中に置いているので、愚行を行うチャレンジャー精神よりも、それに対する批評の自由を守りたい。(もちろん、自らの愚行について開陳する自由も、批評の自由と同じく守られるべきだが)

そして、批評によって発生するデメリットもある程度甘受されるべきだと思っている。ある批評が対象を結果的に排除するものだとしてもである。僕も心がけとしては相手を排除するような批判はしないようにしている。あまり汚い言葉は使わず、プライバシーに触れる情報を晒したり、今の話題に関係のない過去の醜聞を持ち出したりしない、など。

しかし批判と排除をそんなに簡単に分けられるもんだろうか。折り目正しい正論であっても、相手を傷つけ排除してしまう可能性は大いにあるだろう。また、ネット上で公開された批判によって多くの注目が集まれば、それだけで対象の心理的負担は大きくなる。せめて排除という結果ではなく、批判の方法についてバランスを取る方向の方が良いのではないか。ヘイトスピーチやつきまとい行為の禁止などである。

批判に対しては再批判で対抗すべきだ、と基本的には思っているのだが、これはまあ、情報の伝達力の差を無視しているし、一度排除された人間が再批判を行うことは出来ないので、理想論に過ぎないのだが。

知性を持ったカメムシなら相応の悩みはあるだろうが

人間のように見えてカメムシであるという証明書類はどこの機関に発行して..

  • 人間のように見えてカメムシであるという証明書類はどこの機関に発行してもらえばいいですか?
  • カメムシにそんなことをして貰える権利なんてないだろ。
  • 姿形が人間に似ているというだけでひどい扱いを受けるのは動物愛護管理法的なものに抵触しているとおもいます
  • 虫はそんなことは考えない。虫として生まれたのだから、虫らしく生きろ。
  • 虫らしく生きるから電車の運賃はタダにすべきだっていう話だろ。何で虫だと言ってるのに運賃を払わないといけないんだ おかしい
  • 虫は「おかしい」とか考えない。
  • 人間並みの頭脳がある虫がいるとどうして考えないんですか?脳はあっても虫だから運賃請求されるのはおかしい 駅前で拡声器で「私は虫だから運賃を払わなくてよいはずだ」と訴えてビラをまくしかない
  • 虫に人間並みの頭脳なんかあっても不幸なだけだから、考えるな。虫レベルの知能になるように適応していけと言っとるんだ。虫は虫らしく、虫の生を全うしろ。
  • 論点は虫レベルの知能なのに人間と同様に運賃を請求されるのはおかしいということですよ?朝のラッシュ時にトイレの便器ルームを全て塞いでハンガーストライキするしかないんですか?ウンコがズボンの中で炸裂するのは駅が悪い。カメムシを人間扱いするという非道から生じる悲劇ですよこれは。
  • 虫に論点などない。生まれて死ぬだけだ。
  • 生まれて死ぬだけの虫が貨幣経済を強制されるのは間違っている。人間に似ているだけで運賃を請求されるならダッチワイフにも電車の運賃を請求するべき。

察するに、カメムシであるにもかかわらず 見た目が人間そっくりであるためにカメムシとして扱ってもらえず困っているらしい。

自分の種族が何かというのは多分アイデンティティ形成上重要な事なので、市役所か獣医かは分からないが、適切な機関で証明書を発行してもらえればいいなと思う。また、現に知能を持ち権利意識に目覚めたカメムシに対して、カメムシらしく生きろといってもしかたのない事ではないだろうか。

僕は生物学的な種族にかかわらず自らを人間であると思っている、人間でありたいと思っているものには十全な人権が認められるべきだと思う。この増田は自分をカメムシだと思っているようだが、それでも人間とコミュニケーションをとれる知性を持っている存在には何らかの類似した権利が認められるべきではないだろうか。

しかしカメムシだからといって運賃を払わないというのはいかがなものだろう。自分一人で改札から駅に入って目的地までの移動に電車を使うのだから、運賃を払うのが筋だろう。普通のカメムシが電車に迷い込んだのならともかく、人一人分のスペースを取って運んでもらっているのだから。ダッチワイフも電車に載せる場合は手荷物制限に引っかかるのではないだろうか。

それはそれとして自分のアイデンティティが認められない生活というのは苦しく、精神的負担もかなり大きいのではないだろうか。一度精神科で診てもらってはどうだろうか。自身の苦悩をお医者様にわかってもらうために、この増田の内容をプリントアウトして持っていくのも良いと思われる。

「ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物」 ハキリアリと超個体

 

ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物 (飛鳥新社ポピュラーサイエンス)

ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物 (飛鳥新社ポピュラーサイエンス)

 

 

キノコを育てるアリ―ハキリアリのふしぎなくらし (ドキュメント地球のなかまたち)

キノコを育てるアリ―ハキリアリのふしぎなくらし (ドキュメント地球のなかまたち)

 

 今の人間は機械に頼りきりで昔に比べると云々、というような言説が嫌いだ。ソクラテスは文字に頼ることで人間の記憶力が衰えると考えていたらしいから、昔から連綿と続く人間の思想の一類型なのだろう。しかし文字や機械といった文明は人間の社会が持つ本質的な要素の一つではないか。人間はポリス的動物である、と言ったのはソクラテスの言葉を文字として残した弟子・プラトンの、さらに弟子であるアリストテレスだった。目の前の人間に対応するのではなく、人間という動物をついて考える際に、社会という要素を無視することは出来ない。それはアリの行列から一匹だけをつまみ出していくら眺めてみても、アリという動物について本質的な理解は出来ないのと同じだ。

などという与太からのハキリアリである。宇宙人が地球を見た時に最も繁栄した動物だと認識するのはアリだ、などという与太も聞いたことがあるが、ハキリアリはそのアリの中でも最も複雑な進化を遂げた種の一つであることは間違いないだろう。上の梶山あゆみ訳の本で興味を持ち、先日国内で唯一ハキリアリを飼育している多摩動物公園に行って下の本を買ってきた。ハキリアリはキノコを育てるという「農業をする」ことで知られるが、それだけではない高度な文明を築いている。

  • 分業

ハキリアリは高度に分業化が進んだ社会を持つ。一般的なアリにも女王アリ、兵隊アリ、働きアリという区別はあるが、ハキリアリの働きアリは体格によってさらに分化が進んでいる。

年若い小さいアリは巣の中で農場の世話をしたり、女王アリや幼虫・蛹の世話をする。成長して外で作業をするアリにも体格差があり、大きくアゴの力が強いアリは木の葉の上に乗り、後ろ足を軸にコンパスのように葉を切り取って地面に落とす。地面では別のアリがさらに葉を細かくし、また別のアリが巣まで運ぶ。その道中、もっと小さいアリが葉の上に乗り、葉を運んでいるアリに卵を産みつけようとするハエを警戒したり、葉を掃除して微生物や細菌を落としたりしている。葉脈など硬い部分もある木の葉を噛み切るのはアリにとって重労働であるため、大きなアリにしか担当できない。

実際に多摩動物公園で観察すると、巣と餌場の距離が近いからか、葉を切り取ったアリがそのまま巣へと運んでいたが、ほとんどの場合大きな葉には小さなアリが乗っかり護衛をしていた。

  • 環境

ハキリアリが環境を作り替える能力は、他のアリと比べてもはるかに高い。

アリの巣に溶けたアルミニウムを流し込んで型を取る動画が少し前に話題だったが、上の本にもハキリアリの巣にセメントを流し込み、周囲の土を取り除く作業中の写真がある。下の動画は構図が似ているので、おそらくその写真と同じ実験のものだと思う。


Giant Ant Hill Excavated - YouTube

YouTubeで見られるアルミ製アリの巣はせいぜい深さ1mといったところだが、数百万のハキリアリが住む発達したコロニーは、見たところ深さ5m、半径十数mの大きさはあるだろう。

アルミで取ったアリの巣は個々の部屋が小さく平べったいが、ハキリアリの巣の部屋は大きなものが多い。キノコを栽培するにはある程度のスペースが必要だからだ。巣には菌室の他にも女王アリの部屋や幼虫・蛹の部屋があるが、中でも興味深いのはゴミ捨て専用の部屋があることだ。菌は葉っぱのすべての成分を栄養とできるわけではないため、しばらくするとカスが残される。このカスを放置するとハキリアリにとって害を及ぼす別の菌の温床となる可能性があるため、巣の中に専用のゴミ捨て部屋があり、そこに集められる。アリの死骸も同様に菌の温床となるため、ゴミ捨て部屋に運ばれる。ゴミ捨て場の管理は他の菌と触れ合う機会が多い、不潔で危険な仕事だ。そのため年老いた死期が近い働きアリが務めている。

多摩で実際に観察すると、大きな働きアリが、さらに大きな兵隊アリの死骸を引きずって運んでいる姿が印象的だった。

またハキリアリは巣だけでなく、外に道を作り上げる。さながらローマ街道のごとく、草や障害物を取り除いた歩きやすい幹線道路を作ることで、効率的に巣と餌場を行き来することができるのだ。

  • 他の生物との関わり

ハキリアリはアリタケという菌と共生関係にある。ハキリアリは木の葉をそのまま食べてもほとんど栄養を得ることは出来ない。アリタケに葉を分解させ、繁殖したアリタケの胞子を主食としている。カイコガが自然環境では生存できないように、このアリタケはハキリアリの巣の外で見つかることはない。ハキリアリが分泌する化学物質は、アリタケの活動を助ける働きを持つ。アリタケは他の菌が繁殖しづらいph5程度の弱酸性環境で最も活発になるが、この酸性度の維持はハキリアリが酸を分泌することによって行っている。さらに抗生物質を分泌することによっても、他の菌類の活動を抑えている。

ハキリアリの中でも高度な進化を遂げたものは、何世代にもわたってアリタケを継承する。そのような種が育てるアリタケは遺伝子の多様性が失われているためか、発達したアリのコロニーを専門に狙う寄生菌が存在する。これに対抗するためハキリアリは寄生菌の働きを抑える放線菌を利用している。胸のコブから特殊な分泌液を出して体表や口内に放線菌を維持し、巣の中で寄生菌が繁殖することを防ぎ、いざ寄生菌を見つけた場合には口内で消毒してからゴミ捨て場や巣の外に運ぶ。ハキリアリ・アリタケ・放線菌の三者同盟と寄生菌は、互いに軍拡競争を続けながら進化してきたと見て良いのだろう。

ハキリアリも他のアリと同じようにアブラムシを巣内に飼っているが、他にも興味深い闖入者がいる。進化的には近隣種だが、農業をやめて労働階級を失い、他のハキリアリのコロニーに寄生することによってのみ生計を立てる、ニセハキリアリという種が存在するのだ。驚くような話だが、このような存在は逆説的にハキリアリの生産性の高さを証明している。

 

ハキリアリは、このような複雑なコロニーからはぐれて生きていくことは出来ない。しかし、その複雑なコロニーは全て、遺伝子の作用によってハキリアリの群れが作り出す「延長された表現型」だ。生物が生み出す周囲の環境そのものが自然選択の対象になると考える立場からは、コロニーを一つの単位として「超個体」と呼ぶ。

人間の社会を全て遺伝子の影響下にあるものとみるのはおそらく間違っているだろう(ミーム論はとりあえず置いておくとして)。しかし、社会を維持するための機能が人間に備わっていることを無視して、人間について理解することは出来ないだろうとも思うわけである。

まとまらないのでこのへんで。

「戦時標準船入門」大内健二

 

戦時標準船入門―戦時中に急造された勝利のための量産船 (光人社NF文庫)

戦時標準船入門―戦時中に急造された勝利のための量産船 (光人社NF文庫)

 

 

「戦時標準船」とは戦時に官民の需要を満たすために統一基準で作られた輸送船である。第二次大戦では通商破壊により商船の被害が激増し、その穴を埋めるため米英日で戦時標準船が作られた。日本で作られた戦時標準船は、米英と比べると劣るものだった。もちろん、貧すれば鈍する、無い袖は振れないというように、もともと資源や技術で劣る日本が同等の船を作るのは難しい。しかし問題はそこだけではなく制度を運用する思想にもあった。本書では日本の戦時標準船制度がどのように運用されたかと、その問題について述べられている。

 

  • 第一次戦時標準設計船

世界大戦が深刻化し、日本も対米開戦を決意し始めた1940年。海運統制令と造船統制令が施行され、翌1941年から建造される全ての商船は、国が定めた特定の規格に基づくこととされた。実際に被害が出る前からこのような制度を作った先見性はあるのだが、大きな問題があった。この規格は1937年に作られた平時の標準設計を、ほとんどそのまま流用していたのである。

規格の統一により鋼材の調達などが容易になるため、平時でも国が船舶の規格を定める利点はあった。そのため6種類の貨物船の規格が定められたのだが、この規格には強制力がなかったため、実際には規格に沿う船がそれほど多く作られたわけではなかった。平時標準船は貨物船のみの規格だったため油槽船と鉱石運搬船の4規格が追加され戦時標準規格が制定されたのだが、これらも貨物船の規格を基本に修正を加えたものだった。

当初、第一次戦時標準船は設計も艤装も平時のものそのままに作られたため、性能は優れたものであったものの、工期短縮の効果はほとんどなかった。しかし戦況の逼迫とともにこれでは立ち行かないことが分かったため、装飾的な部分の簡略化や、ブロック建造方式・電気溶接などの新技術の順次導入がなされ、1941年末には7ヶ月ほどであったTL型油槽船(約10000総トン)の建造期間は、1943年には5ヶ月に短縮されていた。

  • 第二次戦時標準設計船

第一次戦時標準設計による量産効果は限られていたものの、米潜水艦の魚雷の性能に問題があったことなどから1941年の商船被害は90万トンと、幸か不幸か開戦前に軍部が予想した範囲内に収まった。しかし1942年になると、減少すると予想していた商船被害は逆に増大し、倍近い178万トンに達した。もはや小手先の策では役に立たないと悟った軍部は1942年末から第二次戦時標準設計の策定を開始し、1943年6月からこの規格の船が作られ始めた。アメリカが1941年1月から本格的な工期短縮を目指したリバティー型貨物船の建造計画を始めたことと比べると、遅きに失した計画だった。

第二次戦時標準設計では貨物船と油槽船合わせて6つの規格にまとめられ、ブロック建造方式や電気溶接が本格的に導入された。戦争終盤にはTL型油槽船が3ヶ月で建造されるようになっていた。アメリカのリバティー型貨物船(7197トン)が約3ヶ月、イギリスのエンパイヤ型貨物船(7100トン)が約4ヶ月の建造期間だったことを見ると、建造機関の短縮という目標は成功したと言っていいだろう。

しかしその代償として、第二次戦時標準船の性能は非常に劣悪なものとなった。速力は低下し、不足していた鋼材は大幅に節約されため、耐久性・耐用年数が犠牲になった。外観上の大きな変化として、シーアと呼ばれる丸みを帯びた船体構造が廃され、船首が直線のみで構成されるようになった。これによって簡略化はなされたものの、推進効率は悪化した。後に高速化を期待した第三次標準設計が計画された際、A型貨物船の最大馬力を2500から7200に引き上げても、最大速力は13.1ノットから16.6ノットにしかならなかった。船体の構造そのものが非効率的だったためである。

特に問題だったのは二重底の全面的な廃止である。二重底は座礁時などに船体を保護し、沈没を防ぐための最も基本的な構造である。各海運会社は二重底構造は航海の安全を保証するための最低限の措置であるとして廃止には反対したのだが、結局軍部は強行し、第二次のすべての船に二重底がなかった。第二次標準の船は運用効率が悪いため、第一次や戦前の船が優先的に南方に送られた。そのため終戦時に健在だった輸送船には国内に留め置かれた第二次のものが多かったのだが、国際標準を満たさなかったため、外国航路に就役するためには大規模な改造を必要とし、戦後の復員船としても使用できなかった。

また徴兵によって熟練工の割合が下がっていたことなどから実際の性能はカタログスペックを下回るもので各所に不具合が発生し、就役後に船の乗組員が航海途上で修繕工事をするのが当たり前になっていた。1944年の造船工員の内訳を見ると、男性工員の割合が72%にまで下がっている。学徒工員が13%もいたのに加え、囚人工員が4%、更にはジュネーブ協定に違反する捕虜を動員した工員が1.8%、4800人も存在していた。川南香焼島造船所のように工員の10%以上が捕虜で賄われていた場合すらあったのだ。これではまともな性能が維持できるはずもない。

 

その他本書で興味を惹かれた部分には戦時標準設計のコンクリート製貨物船、木造機帆船などがあった。コンクリート船は重量増加とそれに伴う速力低下という短所はあったものの、鋼材の節約や複雑な工程の不要など、当時の日本にとっては大きなメリットがあった。しかし各造船会社はコンクリート船に興味を示さなかったこともあり、4隻の試作船が作られたのみに終わった。

河川輸送が必要とされる中国・南方や島嶼部の戦線では小回りがきく機帆船が重宝され、陸軍の管理で35万トン以上が建造、動員された。しかしろくな武装も防護も持たない木造機帆船のほとんどは終戦までに失われ、その運用に関する資料も現地で処分されたため、その実態は不明な部分が多いそうだ。