批判と排除の境目はどこか問題

愚行権は「バカなことをやる自由」ではないんだよね - novtanの日常

ネットで叩かれることはどこまでが「排除」なんですかね?

上のエントリで斉藤氏は下のようなブコメを付けている。

もちろん愚行を行ったことに対する批判や自己責任は受容すべきでしょうね。それが排除の方向へと行かなければバランスがとれていると思いますが。

僕は言論・表現の自由をとりあえず一番大事なものとして自分の中に置いているので、愚行を行うチャレンジャー精神よりも、それに対する批評の自由を守りたい。(もちろん、自らの愚行について開陳する自由も、批評の自由と同じく守られるべきだが)

そして、批評によって発生するデメリットもある程度甘受されるべきだと思っている。ある批評が対象を結果的に排除するものだとしてもである。僕も心がけとしては相手を排除するような批判はしないようにしている。あまり汚い言葉は使わず、プライバシーに触れる情報を晒したり、今の話題に関係のない過去の醜聞を持ち出したりしない、など。

しかし批判と排除をそんなに簡単に分けられるもんだろうか。折り目正しい正論であっても、相手を傷つけ排除してしまう可能性は大いにあるだろう。また、ネット上で公開された批判によって多くの注目が集まれば、それだけで対象の心理的負担は大きくなる。せめて排除という結果ではなく、批判の方法についてバランスを取る方向の方が良いのではないか。ヘイトスピーチやつきまとい行為の禁止などである。

批判に対しては再批判で対抗すべきだ、と基本的には思っているのだが、これはまあ、情報の伝達力の差を無視しているし、一度排除された人間が再批判を行うことは出来ないので、理想論に過ぎないのだが。