「聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か」岡崎勝世 西暦はいかにして出来たか

 

 Kindleで買ったのだが、何時も使っているペーパーホワイトだと地図や図表が見づらいし、繰り返し参照するのが面倒くさい。紙の本の方が良かったかもしれない。

 

西暦はBefore ChristとAnno Dominiで表されることからも、キリスト教から生まれた暦だが、この暦を受け入れることは、ある意味ではキリスト教中心の世界観から脱却することだった。なぜなら、西暦以前に使われた「創世紀元」が聖書の創世神話なしには成り立たないものであるのに対し、イエス・キリストは世界史上に間違いなく存在した人物だからだ。

創世記元では聖書から計算される世界の始まりを概ねBC5500年頃におく。迫害を受けていた初期のキリスト教徒は、ローマ帝国を地上における最後の帝国とし、神が6日間で世界を作ったことからの連想で、創世から6000年後に世界は完成を迎え、神の国が顕現すると信じていたものが多かったという。教父アウグスティヌスが生きた5世紀の時点で、その時はもう目前に迫っていたのだ。キリスト教の世界観は終末に彩られたものだったというのは興味深かった。

しかしキリスト教徒たちの前に、エジプトと中国の歴史が立ちはだかる。現代人から見ればこれらの歴史もBC5500年より前の部分は伝説に過ぎないのだが、キリスト教徒たちはこれをただの与太話だと却下せずに、どうにかしてキリスト教歴史観普遍史」の中に取りこもうと努力してきた。その中には天文学を利用して年表を作ったニュートンも含まれる。ただまあ、「神話に登場する星座と歳差運動の理論からアルゴー船の遠征が行われた年代を決定する」という宗教と科学の悪魔合体的手法なのだが。理神論的立場から三位一体説を否定するなど、ニュートンの中では独自の理論で宗教と科学が一体化していたのだろう。