本当に大事なことには、理由なんて無い方がいい 「天気の子」感想

ムショ脱走してから、ずっとニヤニヤしながら見てた。ずっと帆高くんに、やっちまえと無責任に応援しながら見てた。やっちまったなあ。こんなベタなボーイミーツガールを衒いなくやりきって、本当に最高だと思う。

強かったり正しかったりする人間が勝つなんて当たり前のことなんで、むしろ弱くて間違ってる人間に美しさでもって勝利への説得力を与えるのが美術の価値なのではないか。そういう意味で、陰鬱なコンクリートジャングルから一転、晴れ上がった東京の街を駆け抜ける帆高の姿に、こいつは何かを成し遂げるんだろうという説得力を、僕は確かに感じた。逆に言えば、そこに乗り切れなかった人にとっては薄っぺらい物語になるんだろうね。

で、陽菜さんを掠め取って告白する場面で、喝采を送りながらも「コレで向こう数ヶ月はずっと雨なんじゃないか」と苦笑してたんだが、そんな浅慮を飛び越え、めでたしめでたしで着地しなかったのにはぶったまげた。一人と世界を天秤にかけて一人を選んだら、なんだかんだで世界も救われる作品が多い中、世界を捨てて、しかもそれをいい話として描ききったぞ。そうだ、それでいいんだ。ラスト、狂った世界に向けて陽菜さんが祈るシーンが最高に美しい。超常的な力も正しい世界も失われたが、それでも人として生きていくという強さを感じる。これは人間賛歌としての素晴らしさなのだ。

OK, but why be moral?

何が良い生き方or良い社会のあり方なのかという論点とは別に、そもそもなぜ良くあらねばならないのかという論点が別にありまして、ヴィーガニズムや反出生主義はそこが弱いんですよね。

個人の価値観や社会制度を自由主義社会主義・民主主義的に変革すると、今までやっちゃいけなかったことができたり、生活が安定したり、政治に参加できるようになったりと、目に見える個人レベルのメリットがあるわけです(もちろん裏にデメリットがあったりもしますが)。

翻ってヴィーガニズムや反出生主義はどうか。既に屠殺や出産に不快感を持っている人間からすれば、それを採用することで不快感から解放されるというポジティブな効果があります。しかし未だそれらに不快感を持っていない人からすれば、一度不快感を持たなければそれらを採用する利得がないし、利得を得たとしてもプラスマイナスゼロに戻るだけだし、むしろ不快感を持つきっかけはそれらのイデオロギーです。

もちろん環境負荷などヴィーガニズムにポジティブな影響がないではありませんが、種差別やアニマルライツ的視点が根本にある以上基本的にそのメリットは副次的なもので、環境負荷が農業と同等の畜産があったとしても諸手を挙げて賛成するわけではないでしょう。

そもそも主義というのは世界に無数にあって、そのほとんどは主義が正しい=無矛盾なものです。いくらヴィーガニズムや反出生主義が正しい=無矛盾でも、それだけではそこから導かれる規律を、個人や社会として採用する理由にはならないわけですよね。宗教もイデオロギーも、現世利益を喧伝しないと広まりません。

ただ理論としてのヴィーガニズムの正しさ=無矛盾さはかなり強いので、幼い頃からヴィーガニズム的な思想を内面化した人間が増えていけば、100年もしないうちに肉食は不道徳として現在のタバコのような地位に押しやられ、排斥されるのではないか、と俺はアンチヴィーガンだけどそう思っています。

森長あやみ「ぶんぶくティーポット+ 1」

 

ぶんぶくティーポット+ 1 (LAZA COMICS)

ぶんぶくティーポット+ 1 (LAZA COMICS)

 

「うちのお母さんの友達……?」「ふみちゃんのお母さんの?」

「そうそう」

「ならやっぱり悪い人では?」「だよね」

 

 人間に変身できるもののけ女子4名と変身できないけど物知りなタヌキのお兄ちゃんがメインの、蘊蓄コメディ4コマ。前作「ぶんぶくたぬきのティーパーティー」で4人が中学生だったのに対して、舞台を高校に移して仕切り直し。元々ネタ切れで一時休止していたので、それもあってか新キャラも大幅に増えてパワーアップ。

 主人公ふみの母親の同級生で、高校教師のカワウソ・キツネ組に、脱獄犯のふみ父&それを追う公安特務課の女オオカミエージェント。作中圧倒的最強キャラであるフミ母*1だけじゃなくフミ父もなかなか魅力的なキャラなので、出番が増えそうでうれしい。

 

*1:概念を含めたあらゆるものを葉っぱに変化させて消去・貯蓄できる

水口尚樹「早乙女選手、ひたかくす 8」

 

早乙女選手、ひたかくす (8) (ビッグコミックス)

早乙女選手、ひたかくす (8) (ビッグコミックス)

 

相変わらず面白い。

すでに作中で「長年連れ添った老夫婦」と揶揄されているように恋愛関係は盤石な分、恋の障壁(二人の出会いの場である高校ボクシング部)とボクシングでの試合の障壁(それを侮辱する格上選手)を話の中でうまく融合させててストーリー展開がうまいなと感じる。これは5巻のスパーリングの時も同じように思ったっけか。

果たして花見妹は恋のライバルたり得るのか……。いやまあ、そうはならんやろうけど。

「圧倒的」

「圧倒的」という言葉は、伝統的には「対立するものを圧倒するような勢いで」という意味で使われるが、最近は特に比較するものなしに「見るものを圧倒するような雰囲気で」という意味でも使われるなあ。

さらに俗な言い方ではあるが、単に「勢いが強い」という意味でも使われている。

今上帝の勝利

ラジオクラウドでSession22の元号論を聞いていてどうにも違和感があった。改元に当たって政府と首相が面に出ていることを批判していたのだが、事の本質はそうではないのではないか、と思う。改元のそもそものきっかけは、今上帝の退位である。機を見るに敏とばかりに安倍首相が自らの権威強化に乗り出しているのは間違いないだろうが、多くの国民の念頭にあるのは首相の顔ではなく、後1カ月で代替わりする今上帝と東宮だろう。現皇室と現首相に微妙な距離感があることなど、ノンポリの多くの国民も察しているのではないか。

天皇とは日本国家の平穏繁栄を祈るものであり、それによって目に見える現世利益があるとは言わずとも、一市民もそこに感情移入することによって祈りに加わるという宗教の本質的な構造がそこに成立しており、それがポジティブなものであると受け入れられている。だからこそ天皇による時の支配の象徴である改元も、意識的無意識的に天皇制の永続を望む民衆が、無批判に喜んでいる。古代の天皇は譲位によって自らの権力系統を確定させたが、今上帝は譲位によってこの宗教を完成させた。今上帝の勝利である。

世界的に世俗主義の退潮と、権威主義・宗教勢力の台頭が見られる。多くの人々にとって、世俗主義とは冷戦構造の建前に嫌々付き合っていたに過ぎないものであり、その崩壊と共に世俗主義が力を失うのも当然なのかもしれない。改元を違和感なく日本社会が受け入れているのも、その一貫なのではないかと思えてならない。

そういう世の中で、無神論者の俺は、戦後の天皇制というやわらかい宗教を、どう受け止めればいいのだろうか。どうも無神論という宗教は、ミームとしての強度がそれほど高くないらしい。敗北主義的ではあるが、無神論にも世俗主義にも期待できないとなると、イスラム国家におけるジンミーのような、二律背反的な思いがあるのだ。

表現の自由戦士を名乗ることにしたい

以前一目置いているはてブユーザーの人が自称としてはてサを使う人もいると言っていたのを思い出し、俺も今後誇りを持って表現の自由戦士を名乗ることにしたいと思う。いやまあ、わざわざそう書き込む機会は多くないだろうが。
表現の自由と他の権利が対立したときになるべく表現の自由を勝たせるべきだと思っているものの自称として、表現の自由戦士というのはそう悪くないと思う。
世の中には「公共の場では安全安心な空間でなければならず、身勝手な行動は許されない」と思っている人も多いが、俺は「みんなが好き勝手していいが他人の不愉快な言動は我慢しなければならない」のが理想だと思っている。強者の理屈だと憤る人もいれば、世間を知らぬだけだと嘲る人もいるだろう。だが、今の私の偽らざる理想である。
もちろん何事にも中庸というものがあり、多くの人にとっての暮らしやすい社会というのはおそらくその中間にある。だがまあ、俺は今の日本社会も結構好きだが、少しでも理想の方に動くのであれば、それは素晴らしいことのように思える。